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episode6. 飛べない蝶(7)

 遼二が紫月を乗せて向かったのは葉山の海岸だった。ちょうど午後から夕刻へと向かう陽が傾きだした一番美しい時間帯だ。 「ここ、たまに撮影の練習がてら来てたんです。あまり人もいないんでゆっくりしていただけると思います」 「へえ、なかなかいいところな」  そこはこじんまりとした入り江のようになっていて、砂浜もあるが周囲を岩に囲まれていて、あまり観光客などが行き来するような場所でもない。確かに落ち着いて撮影やらスケッチなどをするにはもってこいな海岸だった。  紫月は眩しそうに西日を見つめながら、うれしげに伸びをする。 「気持ちーのな」  そのまま波打ち際へと向かって二人で歩を進める。格別には何を話すでもなかったが、雄大な景色と波の音に包まれているだけで幸せな気持ちにさせてくれる。というよりも、遼二も――そしてもちろん紫月も、側に互いがいるというだけで良かったのかも知れない。 「な、靴脱いでい?」 「え? あ、ええ。もちろん! 気持ちよさそうっすね」  紫月はうれしそうに靴を脱ぎ捨てると、まるで子供のように波に素足をさらしてはしゃいだ。  そんな彼は撮影時に見せる大人の色気はまるでないが、遼二にとってはそのどちらも愛しくて堪らないと思えたのだった。 「紫月さん、ちょっと待っててください!」  遼二は急ぎ車へと戻ると、カメラを片手に戻ってきた。 「え? 撮るの? 俺を?」 「はい。撮らせてください。紫月さんはカメラのこと気にしないで自由にしててくださっていいんで」 「ん、そんじゃ撮って」  波と戯れ、はしゃぐ。何ものにも縛られない無垢な少年のような笑顔が本当に綺麗で愛おしかった。 ――と、その時だ。岩場の陰から突如黒い塊が飛び出してきた。大型犬のシェパードだ。犬の方も二人を見て驚いたのだろう、野太い声で吠えながら二人に向かって突進してきた。 「紫月さん……!」  遼二は咄嗟に紫月を姫抱きすると、まるでバレエのリフトさながらに肩の上へと担ぎ上げた。 「わ……ッ、た……っと! おわッ……!」  紫月は紫月で、遼二の手から放れたカメラを間一髪でキャッチすると、必死でそれを胸の中へと抱え込んだ。 「リョウ! リョウ君……! ダメよ!」  遼二の足下の周囲で弧を描くようにしながら吠え続ける犬に向かって、後方から慌てた声がそう叫んだ。見れば老夫婦が岩場の方からこちらへと駆けてくる。飼い主だろうか。何かの拍子にリードを離してしまったようだ。 「申し訳ありません! お怪我は……!?」  白髪の夫人が蒼白な表情でそう叫ぶ。犬の方も飼い主が現れたことで落ち着いたのだろう、すぐさま遼二の足下を離れると、おとなしく彼らの方へと駆けていった。

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