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episode6. 飛べない蝶(8)

「本当にごめんなさい。この子、大きくて力が強いんで、私たちではどうにもならなくて……」 「お怪我はありませんか!? 本当に申し訳ないことです!」  婦人の亭主だろう、老紳士も必死の形相で謝罪を繰り返す。 「僕らは大丈夫ですので!」  遼二の返答を聞いて、老夫婦はドッと肩を落とした。幸い怪我などもなかったことで安心したのか、息を切らしながらも深く溜め息をつき、心底安堵したようだった。  聞けば、この犬は彼らの息子が飼っているらしい。 「息子夫婦が旅行に行くというので預かったのですけれど、やっぱりお散歩は私たちでは無理だったようですわ」  夫人が申し訳なさそうに言う。彼女の夫の方も、慣れないことでご迷惑をお掛けしてしまってと平身低頭で謝ってよこす。 「本当にもうお気になさらないでください。僕らは何ともありませんでしたし」  遼二が肩に担ぎ上げた紫月を下ろしながら、にこやかに微笑んだ。 「それよりこのワンコの名前、リョウっていうんですね? 男の子かな?」  紫月が問う。 「ええ、そうです。飼ってからもう五、六年になるかしら。雄だからパワーがあるし、もう振り回されちゃってこんなことに……。元々は黒い毛並みがとても良質だっていうところから”(リョウ)”にするんだって。息子が名付けたんですのよ」  夫人がリョウの身体を撫でながら教えてくれた。紫月はリョウの目の前で屈むと、じっと彼を見つめながらうれしそうに微笑んだ。 「そっか、リョウ。お前もめっちゃ男前だな! ハンサムだし身体も引き締まってすげえカッコいいぜ!」  犬の方も褒められたことが理解できるのだろう、ちぎれんばかりに尻尾を振りながら、紫月の頬をぺろりと舐めて答えている。 「あの、俺……ちょっとリョウと遊んでもいいスか?」  紫月が老夫婦に訊くと、その返事を待つ前にリョウがとびきりの美声で「ウォン」と吠えた。 「まあ! この子ったら早速その気になって!」 「本当だ。遊んでくださるのが分かったようだね」  夫妻もうれしそうにうなずいた。 「よっしゃ! じゃ、リョウ、行くぜ!」  紫月が波打ち際に向かって走り出すと、リョウもその後を付いて伸びやかに駆け出していった。  遼二はその姿をカメラで追いながら次々とシャッターを切っていく。夕陽は今まさに地平線へと吸い込まれる瞬間の絶景だ。波がさらった砂浜で無邪気に戯れる紫月とリョウの姿も、それに勝るとも劣らない、いや遼二にとってはそれこそが何物にも変え難い絶景だった。

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