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第18話
柾が違和感を感じたのは、出社して数時間が経った頃。
いつも通りの業務風景の中で、何故か、同僚と目が合わない。指示を出す上司すら、資料ばかり見て柾と視線を合わせようとしない。
何か失敗したかと考えてみても、特別思い当たる節もない。それどころか、先週ひとつ大きな契約を取り付けてきたばかりだ。
ふと思いついて、持田の席を盗み見る。
今日は朝、挨拶をしたきりで、いつものようなアプローチをかけて来るでもない。今も電話対応に追われて忙しそうにしている。
持田が関わっていないのなら、おそらくたいした問題ではない。もともとそれほど仲良くしている社員がいるわけでもない。浅く、広くつき合っている同僚たちに激しく嫌われる覚えもない。
柾は気にしないことに決めて、業務に集中した。
柾の携帯にメールが来たのは、昼休み直前だった。
同僚の川島。一番離れた席だが、立ち上がって声を出せば聞こえる距離だ。
不思議に思って画面を開くと、昼休み屋上に、と果たし状のような内容が書かれていた。
川島は特に柾と仲が良いわけではない。持田のように明るい性格ではないが、曲がったことの嫌いな生真面目な男だった。インテリ風の、シルバーの縁の眼鏡をかけている。年齢は柾と同じ。
もちろん二人っきりで話をしたこともない。ただ、川島が呼ぶのだからいい加減な理由ではないだろうと柾は思った。
屋上、と言っても冬の北海道、雪の積もるテラスは施錠されており、川島が指しているのはそのテラスが見える屋内のベンチのことだろう。
冬季間はあまり人がいないそこに腰掛け、煙草を探してポケットに手を入れたところで、川島が現れた。
いつもと同じ表情。
柾がベンチから腰を上げようとすると、いいから、と手で制した。
「悪い、呼び出して」
「いや…」
川島はホットコーヒーの缶を二つ持っていた。無言で差し出され、柾も無言で受け取った。川島が開けるのを確認してから、柾も右に倣う。
お互いそれほど親密じゃないからか、どこか雰囲気がよそよそしい。
しかし柾は呼び出されたほうだ。黙って川島が切り出すのを待った。
「橋口」
「ん?」
「俺はさ……推測でものを言うのが嫌いなんだ」
「うん?」
いきなり重い口調で川島は本題に入った。柾は何のことかもわからず、相槌を打つしかなかった。
「今朝、デスクのPCにメールが来てな」
「うん」
「どうやらそれが、部長にも、他の皆にも回ってるらしいんだ」
「……メール?」
「橋口のPCには来てないか?差出人不明の」
「いや…来てない、と思うけど」
「やっぱりか……じゃあ、完全に嫌がらせだな」
「川島…それってどういうことだ?」
「直接見る方が早いだろうと思って…今、携帯に送るよ」
川島が手早く携帯を操作する。ピコン、と受信音がして柾はメールを開いた。
短い文章。
たったの二行。
『営業部橋口と人事部三澤はゲイカップル』
『三澤は男を喰うから男性社員は気をつけろ』
瞬きも、呼吸も、強制的に止められた。
瞬間、持田と白崎の顔が浮かぶ。
朝から感じていた違和感の正体はこれだったのだ。女性社員のひそひそ話す声も、男たちの蔑むような、それでいて好奇心に満ちた視線も。
道理で上司すら目を合わせないはずだ。
「橋口が普通だったから、多分知らないんだろうと思った。嫌がらせにしちゃ、たちが悪すぎる。こんなことをする奴に心当たりはあるか?」
「……ないことは、ない」
「そいつに、言った方がいいんじゃないか。でまかせを言うのはやめろと…」
「……でまかせじゃないんだ」
「え?」
いつかこんな日が来るんじゃないか、と思っていた。持田の策略、白崎の脅し、写真まで。
どんなに柾と史が抗おうと、ああいう輩は自分の気が済むまで続ける。それを二人とも、身を持って知っていた。それでも、二人は共に過ごすことの方が優先で、どこか現実から目を逸らしていた。
柾は白崎に、史に手を出すな、と態度で示した。持田には好きな人がいると言ったら、史にあなたから柾を奪うとわざわざ告げに行ったという。
どっちだ。
何より腹立たしいのは、二行目だ。
はらわたが煮えくり返る思いで携帯を握りしめていると、川島が言った。
「でまかせじゃないって…橋口…」
そうだった。
知らせてくれた川島にまず礼を言わなければ。柾は我に返って、答えた。
「えっと…まず、ありがとう、教えてくれて。で……ごめん、気持ち悪かったら、少し場所離れてもいいけど…」
「大丈夫だ。そんなこと気にしなくていい」
柾が腰を浮かすと、川島は大まじめな顔で引き留めた。柾は改めてベンチに腰を降ろすと、なるべく冷静に聞こえるように気をつけて言った。
「…最初のは、本当なんだ。つき合っている、っていえばわかりやすいかな」
「……そうなのか」
「二つ目のは、あれはもちろん大嘘だ。許せない」
「それは、俺でもわかる。あんなのただの言いがかりだろう」
「川島……平気なのか、こういう話…気持ち悪くないのか?」
「推測でものを言うのが嫌いだって言ったろ?本人から聞く分には何の問題もないよ。それに…いたんだ、友達に。だから、気持ち悪くなんかない」
「そうか……」
「俺が嫌なのは、どいつもこいつも本当のことを知らないくせに、面白おかしく噂話にすることだ。そもそも会社のシステムを使ってこんな嫌がらせをする奴が一番腐ってるけどな」
会社のシステム、という単語に柾ははっとした。
「川島!さっきのメール、俺以外の営業部全員に回ったんだよな?」
「ああ…多分、朝みんな話してたからな」
「他の部署にも、回ってるって可能性は…」
「……どこから送られてるかによるだろうが、あるかもしれないな…」
「くそ…っ…」
史がもし見ていたら。
カムアウトすることで起こる誹謗中傷から柾を守ろうとしてくれていた。
それがこんな形で知られてしまうなんて。
そして何よりも、二行目のあの心ない言葉。
史が今まで、自分の身体のことでどれほど傷ついてきたかしれないのに。
拳で自分の膝を叩いた柾に、川島は穏やかな口調で話しかけた。
「橋口……これは、大きなお世話かもしれないが…、聞いてくれるか」
「え?」
「さっき、友達にいたって言ったろ?高校の時だったんだけど、今の橋口と同じようなことがあったんだよ。誰かが噂を流して…本人たちの知らないところでどんどん広まって、教師とかにも知れて、面倒なことになったんだ」
川島は頭を垂れて、床の一点を見つめて続けた。
「その片割れが俺の親友で。若い頃だから、周りも遠慮なく弄り倒して…俺にはそいつ、相談してくれたんだけど、何て言ってやればいいかわかんなくて、知らねーよって突き放しちゃったんだよ」
柾にも、覚えがある。
中学生くらいの記憶。初恋だった副担任の教師を見つめる目が気持ち悪いと、同級生にからかわれた。冗談だよ、とごまかして事なきを得たが、内心ひどく傷ついたのを覚えている。
そのころ、相談できる友人はいなかった。
柾は川島の声がひどくか細いのが気にかかり、尋ねた。
「……それで?」
「机や黒板に悪戯書きされたり、教師にもからかわれるところまで嫌がらせがエスカレートしていって…親友は不登校になった。それが3年のあたまで、卒業まで学校には来なかった。……自殺したって、卒業してから聞いた」
「………」
自分のセクシュアリティをうまく受け入れられない人間は多い。
人と違う自分を責めて、責めて、蓋をする。いろいろな方法で。
そうならなかった柾は運が良かったのかもしれない。史はもしかしたら、川島の友人のように思ったことがあるかもしれない。
今、史と一緒にいられることは、奇跡なのかもしれない、と柾は思った。
「だから、このメールが来た時、俺はちゃんと真実を知った上で橋口と話したいと思ったんだ。……こんな卑劣なことをするような奴に屈するな」
「川島…」
「橋口の様子を見てたら、本気なんだってわかる。三澤さんに」
「………」
「隠すのがいいのか、カミングアウトするのがいいのかは、本人達の問題だろうけど……俺は黙っていたらひどくなる気がする。橋口」
川島は立ち上がり、柾を見下ろした。そして力強く言った。
「味方はいるからな。負けるなよ」
柾は立ち上がった。まっすぐに川島の眼鏡の奥の瞳を見つめて、言った。
「ありがとう」
「じゃあな」
「うん」
川島が去った後、柾は携帯電話を取り出した。
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