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第19話

史の上司、松原はコーヒーをテーブルの上に二つ並べた。 優しく微笑んで、ひとつカップを史の前に滑らせた。 「部長…」 「まあ、まず飲んで。この豆、いいやつなんだよ」 その日出社した史は、周りの社員の様子がおかしいことに気づいた。あからさまに避ける、何人かで固まってひそひそ話す、目を合わせようとしない。 伊藤と宇田川はいつも通りだが、若干距離が遠い。 史を見つめる白崎のねっとりした視線だけが変わらない。 これは、嫌な予感がする。 そう思った矢先、部長の松原に会議室に呼ばれた。 史がコーヒーを一口飲むのを待って、松原が口を開いた。 「急にすまないね。呼んだのは、この件なんだが」 松原は自分の方に向いているPCの画面を反転させ、史に見せた。 差出人不明のメール。 2行の短い文章だが、そこには決定的な情報が盛り込まれていた。 血の気が引いた。 「……あの…っ…これは…」 うまく声が出ない。呼吸が出来ない。 「今朝早く、PCに送られてきてね…君はまだ見ていなかったかな」 「見て…おりません…というか、僕のところには何も…」 「そうか……たちの悪い嫌がらせだと思うんだがね…どうやら大々的にこのメールが回っているらしくて、上の方にも」 「………」 「もちろん上層部は信じていないよ。三澤くんが本部から来たのと優秀なのでやっかんでいるんだろうと…ただね、このメールにある、橋口くんなんだが」 「……橋口くんが、何か?」 「あー、その、なんだ…君を追いかけてこっちに来たんだって?どこから出回ったか知らないが、上から聞かれてね」 「……それは…問題になっている、ということですか」 「いや、それ自体が問題なのでなくて、今回のことと繋がってしまって、話題に上ったんだよ。それで…橋口くんは営業なのでね…そういう性癖の社員に外回りをさせるのはどうかという話が出たんだ」 「橋口くんはっ…何も悪くありません!」 「三澤くん……」 「……すみません。橋口くんが、上層部から厳重注意されるのでしょうか…」 「うーん…まあ、今のところはまだ大丈夫だろう。問題は、取引先にそういうことをえらく嫌う、偏った客が結構いるらしく、そっちを心配していた」 それならば持田だって嫌われるのではないか、と思ったが、あのそつのない雰囲気でうまく隠し通してきたのだろう。 「それで…部長は僕に何をお聞きになりたいんですか」 PCを松原に戻し、史は姿勢を正した。落ち着かなければ、と思った。 松原は真顔になり、言った。 「このメールを送った人間に心当たりはないか?」 「……一人、おります」 「白崎くんか」 「!!」 「やっぱりそうか…」 「あの、部長……?」 松原は大きく息を吐き出した。そして眉間に深い皺を刻んで、言った。 「彼の周りでは問題が多く…巻き込まれて辞める社員が多いんだ。彼に上層部の息がかかっていなければとっくの昔にクビになっていてもいいはずなんだが」 威圧的な態度の理由に合点が行った。 それにしても白崎はやっかいなポジションのようだ。その白崎に楯突いてしまったのは危険だったかもしれない。史も、柾も。 「三澤くん、君は優秀で、うちに来てくれて感謝している。出来れば僕はこのままうちで頑張ってもらいたい。白崎くんのことは、こちらでも気をつけて見ておくが…その…」 松原が口ごもる。 史は彼が何を言いたいのか察して、自ら口を開いた。 「部長、言葉を選んでいただかなくても構いません。ご迷惑をおかけしたのですから、何でもお答えします」 「……そうか。まあ、今日の様子を見ていたらわかるが…三澤くん、君と橋口くんは恋人同士、ということでいいのかい」 史は息を吸い込み、小さく吐き出した。そして松原をまっすぐ見返し、答えた。 「はい」 「橋口くんが追いかけて来たというのも、本当か?」 「正確には……僕がついてきて欲しいと頼みました。彼はそれに応えた、というだけです」 「……なるほどね…」 「もし、罰を受けるとしたら、僕が…っ」 「別に悪いことをしたわけじゃないだろう。君たちは被害者だし、三澤くんを守るのは人事部長の僕の役目だから大丈夫だよ。ただ、橋口くんが心配だな…」 「え…」 「罰なんてものはない。が、さっき言ったとおり、偏見のきつい、面倒な客ばかり押しつけられることはあるかもしれないな。営業部長の鹿島は僕の同期なんだが…性格に難ありでね。こんなメールを見たら、あたりがきつくなるかもしれない。守ってやる、というタイプの上司じゃないからな…」 「そんな…」 「とにかく、君はこんなくだらない嫌がらせを気にせず、仕事してくれ。フォローは僕がするし、白崎くんには目を光らせておくよ。橋口くんのことも気にしておくから心配するな」 「部長……どうしてそんなに親身になってくださるんですか」 「ん?ああ…上田に頼まれているからな」 年上だったが、東京で部下だった上田。史の転勤で部長に昇進したが、昔から史のことを理解してくれていた。野瀬燿子との離婚も、史と柾のことも、上田がいてくれたからスムーズだった。 唯一の理解者だったかもしれない。 「上田さんに?」 「大学が一緒だったんだ。同じサークルの後輩でね。今でもたまに相談に乗ったりするよ。三澤くんがこっちに来るとき、くれぐれもよろしくと…仕事は出来るが、繊細なところがあるから、よく見てやってくれってね」 松原はにっこり笑った。ここに来ても、上田に助けられている。 史は胸にこみ上げるものをぐっと抑え、ありがとうございますと松原に頭を下げた。 会議室を出て、史は大きく息を吐き出した。 人事部に戻るのが気が重い。 それでも出来るだけいつも通りに接してくれようとする伊藤と宇田川には感謝しかない。彼女たちにしてみたら、史だって白崎と同じように見えるかもしれないのに。 携帯が鳴った。 液晶画面に橋口 柾の文字。 あたりに誰もいないことを確認して耳にあてる。 「はい、三澤」 『あ…、あの、橋口です』 「……怪メールのことか?」 『はい…やっぱりそちらにも?』 「僕は見ていないけど、部長から聞いた」 『…大丈夫ですか?』 「大丈夫だよ、こんなの慣れてる。そっちは…平気か?」 『平気っていうか…同僚が一人、助けてくれました。俺は大丈夫です』 「それなら良かった。……柾」 史が会社で、滅多に柾の名前を呼ぶことはない。電話の向こうで、柾がはっとする気配がする。 『はい』 「……何があっても、柾に対する気持ちは変わらないから。信じてほしい」 『ど…どういうことですか…何があってもって…』 「ここまで着いてこさせて、巻き込んだのは僕の責任だ」 『待ってください!何するつもりです?』 「……僕が愛しているのは…柾だけだ」 史は電話口で名前を呼ぶ柾の声を聞かないようにして通話を切った。 携帯の電源を切り、人事部へ向かった。 決着をつけるつもりでいた。 白崎に直談判したところで噂は消えない。柾の処遇が変わるわけでもない。むしろ白崎を煽ることになるかもしれない。そうなれば危険なのは、史自身。自分を好きにさせても、柾を守りたいと史は考えた。 それほどまでに、史は白崎が許せなかった。 廊下の角を曲がった時だった。誰かの腕が史の肩をぽん、と叩いた。 振り返る間もなく、身体ごと引っ張られ、近くのトイレに引きずり込まれた。 大きな手に口を塞がれ声が出せない。抵抗する史の首筋に、男の生温かいい吐息がかかる。 史が、自分の香りが強くなっていることに気がついた時にはもう遅かった。これに反応してしまった男がどうなるか、嫌というほど知っている。 札幌に赴任して、もうこんなことないと思っていたのに。 だから、嫌なんだ。この香りがいつも、俺の邪魔をする。 どうして気がつかなかったんだ。 会議室から出てくるのを待っていたのか。 柾との電話も、聞いていたのか。 「白崎…っ…!」 白崎は「清掃中」の札を乱暴にトイレの入り口に立て、ドアを閉めた。

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