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第二話
――大人になったらまた来るからね。何処にも行かないでここで待っていてね。大きくなったら、おれがあなたをお嫁さんにしてあげるからね。
――そうか、待っているよ。必ず僕を迎えに来ておくれ。
まだ十歳にもなっていない時だったか。旅先の山道で両親とはぐれて泣いていた俺に話し掛けてくれたのは黒髪の綺麗なお兄さんだった。お兄さんは俺を抱っこして懸命にあやし、綺麗な景色をいくつも見せてくれた。俺はいつの間にか泣きやんで、夢中で山で遊んでいた。お兄さんが見つけてくれた両親の元に戻る時、「お嫁さん」のちゃんとした意味も知らずに、俺はお兄さんと指切りをした。その後の旅行中も時間が許す限り、この山に登ってお兄さんに会いにきていた。
お兄さんは確かに男の人だった。声が低くて喉仏もあったから間違いはない。男の人をお嫁さんにできないと悟った小六の頃、俺はあまりのショックに泣いた。
中学生になってからは、お兄さんはもう俺の事を忘れたかもしれないと思うようになった。もしくは、俺がまた泣きださないように話を合わせてくれていたのかもしれない。どちらにせよ、根拠はないけれどお兄さんの中に俺は残っていないんじゃないかと考えていた。
そして今、高校を卒業した俺は必死に同性愛と同性結婚、そして性交の仕方まで調べ尽くし、何度もシュミレーションしている。もう会えないかもしれないとか、もし会えても子供のごっこ遊びに付き合っただけだと馬鹿にされるかもしれないとは今でも思っている。でも迎えに行くと約束した以上、果たすべきだろう。嫁にはできなくても、もう一度会ってあの時のお礼をして、もっと沢山の話をしたい。
就職してひと月経って、初任給を手にした俺は、五月の連休で旅行に行った。勿論、お兄さんに会う為だ。朧げで殆ど当てにならない記憶を辿って山道を歩く。他の登山者の後を付いて行くように歩き回り、景色が良いのを理由に足を止めて休憩してを繰り返し、小さな湖にたどり着いた。ここは見覚えがある。お兄さんに抱っこされながら見た湖だ。相変わらず綺麗だったが、あの時は紅葉が水面に浮かんでいてもっと良い景色だった。
「やっぱり、お兄さんと見たいよなあ」
そう呟いた時、一羽の雀が俺の肩にとまった。
「え、なんで?」
雀と目が合うと、雀は俺の頭の上を二周くるくると回ってから山道へと飛んで行く。飛び去ったかと思えば戻ってきて再び俺の頭の上を回る。そして同じ道を行ったり来たりしながらしきりに鳴いた。
「着いてこい、ってか?」
俺は雀の後を追って歩く。見失いかければ戻ってきて急かすようにまた俺の頭の上を回った。通って良いのかも分からない脇道に入り、暫く坂を歩いていると、突然雀は空高く飛んで姿を消した。
「いや俺飛べないし……こんなところに連れて来られて帰れる自信ないんだけど」
「迷子かい? ここは登山道じゃないんだ。間違って来たなら案内するからすぐに戻りな」
既に見えぬ雀に文句を言ったら聞き覚えのある、低い優しい声が聞こえた。空から正面に視線を戻すと、真っ白い布を体に纏った、艶のある長い黒髪の人が立っていた。肌には白い粉をはたいて、唇には紅い口紅を引いて、頬を桃色に染めて可愛らしく化粧をした人だった。まるで女性のようなその人の声は、確かに自分が探していたお兄さんの声だ。
「お兄さんなの?」
「君は僕を……覚えていてくれたのか?」
「忘れてないよ。今日、俺はお兄さんを迎えに来たんだ。大きくなったらお嫁さんにするからって約束したから」
「待っていたよ。待ちくたびれた。約束を忘れられたもんだと思っていたよ」
お兄さんは目を潤ませて俺を見つめた。それから寂しかっただの、なんでこんなに遅いのかだの、延々と恨み言を言い続ける。手紙のひとつも出せなかったのは申し訳ないとは思ったが、俺は高校を卒業してやっと就職したところだ。これでも法律上はまだ大人になっていない。
「僕はもう、嫁入りの準備を済ませたよ。このまま貰ってくれるかい?」
お兄さんは遠慮がちに両手を広げる。その姿が白無垢を着た新婦さんに見えた。否、「見えた」ではなく「そう」なのだろう。女性のように髪を伸ばして白無垢を着て、化粧をして、俺が来る日を今日か明日かと待っていてくれたんだろう。俺は愛おしくて、お兄さんを抱きしめる。昔はもっと高いと思っていた背丈は、今は俺よりも低い。俺はお兄さんを抱きしめたまま求婚した。
「俺のお嫁さんになってください」
お兄さんは二つ返事で了承した。
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