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第5話

 瀬戸はリモコンでテレビを付けると、さっさと風呂場に向かっていってしまった。  やんわり俺をソファに座らせると、「これ見とくのが光希の役目ね」と言って、俺の頭のてっぺんを一度だけ控えめに撫でて行った。  残された部屋は、ちょっと前とおんなじ。チクタク、秒針の音だけぼんやり響いている。  奥の風呂場から、タイルを打つシャワーの音が聞こえた。瀬戸はまず身体を流す男らしい。  瀬戸が付けてくれたテレビは、騒々しい実況中継を通じて野球を流している。ぱこん。白球を打ったバッターが猛スピードで駆け出して、一塁ベースに滑り込んだ。野球のユニフォームなんて泥臭くてかなわない。無心にテレビの画面を見詰めてみるけれど、何が面白いのかなんて、やっぱりちっとも分からなかった。  隣に瀬戸が座っていたら、或いは、この面白さも理解できるんだろうか。 「……依存?」  言葉にして、いやいや、と首を振る。  確かに俺の高校生活において、瀬戸以外に友達と呼べる人間は居ないに等しいけれど。  瀬戸という人間の存在に無意識下で依存しているなんて、もしそんなことが俺の身に起こっているのなら。 「絶対瀬戸がわるいよね」  俺をそんなふうにさせてしまったあの男にこそ、責任がある気がした。  野球の実況はとても煩くて、でも、瀬戸もこういうスポーツをしているのだと思うと、何故か華やいで見える景色だ。  そこそこ、を何でもできる瀬戸は、もしかしなくても、とても器用で、それに加えて他人にも優しい。いつも心の余裕が見て取れるようなおおらかな人間だ。  なのに。  さっきの瀬戸は、やっぱりうんとおかしかった。悩み方もいつもと少し違ったし、俺に、「呪いみたいに着いて回る」なんて言葉を使った。瀬戸は気持ちの押しつけを好まない男だ。なのに、俺の気持ちを敢えて汲まない台詞を口にしてきたのだ。  あんな瀬戸は、まったく知らない。  知らない瀬戸の事を、またひとつ、思わぬ形で知れてしまった。嬉しさに混じって、僅かばかり恐れが身に巣食うのは、瀬戸の事を深く知ることが、もしかすれば怖いからなのかもしれない。  そこまで考えて、ふと頭の中心に、八樹の声が朧に響いた。兄ちゃん、と呼ぶ、俺よりちょっと高い声。声変わりしても、あんまり声質が変わらなかった俺の弟。  小学五年生に上がったくらいから、俺と離されて、いつも晩はおかあさんの部屋で過ごすことを強いられてきた俺の、弟。  泣き虫で、とても弱い。力なんて無い非力な男だ。下半身は俗物的に矯正されて、いつもおかあさんの部屋から弟の高い、阿婆擦れみたいな声だけ聞こえてくる。  うえ、っと嗚咽が喉の奥から漏れた。馬鹿らしい。わざわざ他人の家に逃げ込んで、それでもその逃避因子を思い出すなんて自傷行為だ。  頭を振ってため息をついたところで、がちゃん、と、風呂場の方からドアの閉まる音がした。続いてフローリングを進むぺたぺたとした皮膚の音が鳴る。 「た〜だいま。光希?」  ひょっこりと廊下からリビングに現れた瀬戸は、湯に濡れてぺちゃんこになった髪を後ろに緩く流していて、充分に拭き取れていない水滴がぽたぽた滴り落ちている。 「おかえり」 「うん。どした、ぼんやりしてんね」 「何もない」 「そ? 野球ちゃんと見ててくれた?」 「眺めはした」 「馬鹿だね〜お前は」  瀬戸は笑って、腰骨の辺りまでジャージのズボンを下げて身なりを整えると、どっかりと俺の隣に腰を下ろしてくる。瀬戸の頭とか身体から香ってくる、おんなじシャンプーと石鹸の匂い。  家の人以外でおんなじ匂いを共有するなんて初めてだった。瀬戸はテレビをじっと見詰めて、「今日の試合は詰まらんね」なんて言葉を吐く。それから、不意に立ち上がると、リビングを離れようとした。 「どこ行くん」 「飲みもん取ってくる。光希も飲む?」 「一緒に行く」 「いや座ってて。動かんで、頼むから」  瀬戸に、ぐいっと身体を押し付けられて、浮きかけた腰をソファに深く沈まされる。反論しようと口を開きかけた瞬間、また頭のてっぺんをふかふか撫でられて、しゅうっと怒りも萎んでしまった。 「光希の髪ふわふわね。おんなじ匂いすんよ」 「瀬戸の家の風呂使ったから当たり前だ」 「うん。そーね、いいね、なんか。こういうの」 「? ちっとも分からん」 「うん、知っとるよ」  瀬戸はちょっと寂しい笑い方をして、すぐ戻るから、と後ろ背に呟いた。確かに二十秒くらいで戻ってきた。ついて行かなくて正解だったらしい。手にコップとプラスチックの容器を持っている。俺の方にコップを差し出した瀬戸は言った。 「光希は麦茶ね」 「それなん」 「俺のはプロテイン」 「俺もそれがいい」 「光希は飲む必要ないから」  瀬戸はプラスチックの容器をシャカシャカ振っている。中に入った薄い黄色の液体が、容赦なく泡立って揺れていた。 「じゃあ俺が振る」 「やりたがりね、お前」 「貸せ」 「零さんでね」  無理やり瀬戸からプラスチックの容器を奪い取って乱雑に振り回す。瀬戸は苦笑いをして、ぱしん、と柔く俺の腕を握りしめてきた。 「シャカシャカできんから離して」 「そんな意味わからん振り方せんで?」 「瀬戸は一々煩い、おかあさんか」 「……光希のおかあさんはこんなんじゃないでしょ」  ――あ。  瀬戸の目が、悲しく揺れていた。俺をふたつの眸で見詰めていて、その色はとっても寂しい。 「ねえ、瀬戸」 「お前の知らない、お前の弱いところは俺が全部見てやるから」  瀬戸の手が、馬鹿みたいに熱かった。火傷するくらい。触られた場所から、苦しんで苦しんで、無くなってしまっていくように。  瀬戸が、今までに無いくらい、押し潰されたような怖い声を出す。 「俺が全部受け止める。たぶん、俺だけがお前を救ってあげられる」 「お前を俺が呪ってあげる」

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