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第2話

 気散じにコーヒーを淹れてきた。パソコンに向き直り、フォルダを開いた。そこに収めてある文書を印刷しはじめる。  排紙口に吐き出されていくものは、ある青年の言動に着想を得て書き上げた脚本の第一稿だ。  哀しみのどん底に突き落とされて以来、酒びたりの毎日を送ってきた。  それは緩慢な自殺といえた。野垂れ死んでもかまわない、とさえ思っていた。  しかし映画界に返り咲きたい、という欲求が最近とみに膨れあがってきた。  そう考えるきっかけになったものは、ある種、運命的な出逢いだ。  自身が再び表舞台に立つのが無理なら、傀儡師(くぐつし)に収まればよい。  後継者となる俳優をこの手で育てあげて、世に送り出すのだ。  幸い、スパルタ方式で演技指導を行うにふさわしい逸材は、確保してある。  橘は微笑んだ。印刷物を綴じ終えると、机を離れて窓辺に歩み寄った。  ブラインドを菱形に押し広げて、宵闇が迫りつつある街並を眺める。  ここは、リバーサイドにそびえ立つ高層マンションの一室だ。メゾネット形式のペントハウスで、階下と階上は螺旋階段で結ばれている。  夜ともなれば、無数のダイヤモンドをちりばめたような光景が眼下に広がる。雨もよいの今日は鈍色(にびいろ)の雲が垂れ込め、川も首都高もひとしなみにけぶって見える。  古傷がやけに疼くと思えば案の定、昼すぎに降りだした雨がみぞれに変わった。  切断を余儀なくされて以来、右足は湿度と気温の変化に敏感だ。  煙草を咥えた。紫煙をくゆらしながら物思いにふける。  自身の手でウイキペディアに加筆するなら、さしずめこうだろうか。 〝新婚旅行を兼ねて訪れた妻の故国、ドイツにおいて車数台が大破、炎上する事故に巻き込まれた。その事故で最愛の女性を(うしな)い、同時に右足の臑から下を失った〟──    杖をつけばひとりで歩けるまでに躰が回復するのを待って、極秘裏に帰国した。  その後、橘が都内某所で隠遁(いんとん)生活を送っていることを知る者は、ごくひと握りの人間に限られる。

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