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第31話

 ばたつかせた足が(くう)を切る。  餌食にされる運命から逃れたがって、死に物狂いになってずり上がれば、鎖がじゃらじゃらと床を叩き、手首に巻かれたアスコットタイがほどける。  腕を伸ばした。堅牢な肩に無意識のうちにしがみついて、侵蝕されるつらさを堪え忍ぶ。 「っ、ぁ、ん、んん……っ!」 「負けん気が強いところは美点のひとつだが。やせ我慢を張りすぎるのは可愛げがない。声を出しなさい」  ぷいと横を向けば、くやし涙にしては甘やかな要素をはらむものが、こめかみを伝い落ちる。視界がぼやけ、霞がかかったその向こうに、真摯な表情を見いだした。  なぜかしら、ときめいた。そのせつな、苦み走った顔が間近に迫り、額をついばまれた。  こめかみ、瞼、頬と順ぐりに優しいキスが舞い落ち、佑也は拳を固めた。  橘が厚かましくも唇を盗もうとしたときは、容赦はしない。唇を嚙み裂いてやる。  佑也は、頭を左右に打ち振った。程よい厚みのある胸に両手をつっぱり、可能なかぎり橘を押しやっておいて、呪い殺すような視線を彼にぶつけた。  それと裏腹に、やや肉厚なそれをそこに欲して唇がひりつく。  いっそのこと、こちらから唇にむしゃぶりついてゆくのも満更じゃない気がする。  さしずめ、オール・オア・ナッシングを条件に繰り広げられる心理戦。橘と接吻を交わせば、そんな、いびつな関係が新たな局面を迎えるかもしれないから──。  ところが唇は唇に触れると見せかけて、巧妙に避けて通る。  ほっとする反面、がっかりするものがあった。佑也は顎をしゃくった。 「キスさせてやるから、しろよ」 「人に何かを頼むときは作法がある、と教えたばかりだというのにもう忘れたのか。『しろよ』ではなくて『してください』だ。それが鉄則と、肝に銘じておくように」  取り澄ました顔めがけて唾を吐きかけた。それをもって返答に代えれば、制裁を加えるように楔が打ち込まれて、襞が軋んだ。 「……く……ぅっ!」 「きみは声の質はいいが滑舌が悪い。『あめんぼあかいな、あいうえお』。復誦しなさい」 「くそったれが……ぁあっ!」 「母音の発音は悪くない」  胸倉を摑んで、橘をうつむかせた。頭を抱えて寄せて、彼のほうからくちづけたという構図が出来上がるように仕向けた。

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