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螺旋階段は同じ所を通らない(17)
真壁はもう一度、宮下の懐に迎え入れられた。
足が地面に着いていないかのように、体の中心が浮ついている。宮下の胸に頭を預けると、骨ばった両腕が真壁の体を支えてくれた。手のひらが優しく背に宛がわれている。これは妄想の中の話ではなくて現実なのだと、真壁はようやく安心することができた。
宮下の返事や今までの言動が、真壁の頭の中に繰り返し再生される。仕事場での礼儀正しい立ち振る舞い。「僕」が「俺」に切り替わった瞬間。一緒に食事に行った時に見せてくれた、憎めない生意気な笑顔。「信じてください」という頼もしい言葉。いつから、「そういう意味でも良い」と思ってくれていたのだろう。
「真壁さん、顔上げて」
密やかな呼びかけとともに背中を軽く叩かれる。真壁は寄りかかっていた胸から少し離れて、宮下の顔を見つめた。満足そうに細められた瞳が、真壁を捕らえていた。
「目、閉じて」
穏やかに響く声が、真壁の耳に心地良く染み渡る。抗う理由はない。視界が瞼に遮られ、額と額が合わさって、心臓が煩くなっていく。今、近くに宮下の顔があると思うと、落ち着かなかった。
宮下に近づいて触れあうことを、真壁は何度も想像してきた。以前に宮下の家で過ごしたときに生まれた、苦くて優しい記憶の先で、彼の腕に包まれながら、羽毛のように軽いキスをする。子どもじみた夢想だと、自分でも分かっていた。
その先のことは頭になかった。宮下に受け入れてもらえるとは思っていなかったから。そのせいで、事ここに至っても、覚悟が足りておらず狼狽している。
宮下のような人は、こういったことにも手慣れているに違いないと、真壁は勝手な憶測を頭の中で巡らせていた。彼は、余裕しゃくしゃくの爽やかな笑顔をしているのだろう。袖を手汗で濡らしている自分とは違って。惨めな気持ちを隠すように拳を握ると、手を絡め取られる。焦りを気取られたことが嫌でも分かった。
「手汗、ごめ……」
謝罪の言葉の上から、柔らかい唇が覆い被さってきた。想像以上にしっとりしていたそれは、真壁の乾いた唇を湿らせた後、すぐに離れていく。
「気にしてないから」
宮下らしからぬ、堅い性急な口ぶりだった。瞼を持ち上げて様子を窺うと、熱のこもった真剣な瞳が至近距離まで迫っていた。
もう一度唇を合わせた時には、要らぬ思考を残している暇はなかった。端から端まで唇を食まれ、濡らされて緩くなった隙間から、温い舌が侵入してくる。柔い感触が、控えめに上顎をなぞりながら刺激を刻み込んで、真壁を無防備にしていった。
繰り返される口づけが、真壁の呼吸を浅くする。熱を纏った息が、肺の底へ澱のように折り重なっていった。
どちらのものか分からない唾液を喘ぎながら飲み込む。代わりに、肺に押しとどめられていた空気が、ふぐ、という声と共に吐き出された。間の抜けた真壁の声を間近にいる宮下が聞き逃すわけもない。彼は子を温かく見守る親のような笑みを湛えていた。絡みつくような温い空気の漂う今の状況に似つかわしくない、気の抜けた声をあげてしまった自分が憎々しくて、真壁は消えてしまいたくなった。
「……ごめん」
惨めな気持ちで謝罪の言葉を絞り出した後、雰囲気ぶち壊しの失態を誤魔化すために、真壁は大きく深呼吸した。既に今日は、彼の目の前で涙を見せてしまっている。これ以上、みっともない姿を宮下に見られたくない。
「油断してるみたいで可愛かったけどな」
「何言ってんだ。揶揄わないでくれよ」
「本当だよ。気を抜いてる真壁さんのほうが、俺は好きだな」
冗談のような愛情表現でも、真壁の頬を熱くするには十分の殺し文句だった。照れ隠しに否定の言葉を捲し立てても、宮下は一切動じない。彼の真っすぐな態度が、真壁の冷静さを余計に失わせる。この甘い時間がずっと続くのだと錯覚してしまいそうになる。そんなことは有り得ないのに。
終わりを見据えた心構えをするなんて、想いを確かめて触れ合った直後にするようなことではないのは分かっている。けれど、いつかは別れの時が来るのだと覚悟しておかなければ、いざその状況に直面したときに耐えられなくなってしまう――。
真壁の懊悩など知る由もない宮下は、距離を詰めて体を密着させてくる。背に当たる玄関扉は氷のように冷たいのに、真壁の体に灯る熱が消える兆しは欠片もなかった。
「……ねえ、立ったままは辛くないですか? 上がっていってよ」
甘えた声が耳朶を掠めて、脳内に響いた。こちらに判断を委ねるような口ぶりだが、背に回された腕が緩められることはない。断りの返事をされたとしても、真壁を離すつもりはないのだろう。その強引さが宮下の好意の証のように思えて、頭の中で渦巻いていた不安が薄れていく。軽くなった頭でこくりと頷くと、宮下の腕の力が強くなった。
首筋に寄せられた宮下の髪からは、温かな人肌の匂いに混じって、爽やかなシトラスの香りがする。背後の玄関扉から、鍵の閉まる金属音が鳴った。
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