18 / 20
螺旋階段は同じ所を通らない(18)◎
家の中は、以前訪れたときのように美しく整えられていた。フローリングには髪の毛一つ落ちておらず、通路から覗くキッチンには、余分な食器や調理器具が放置されている様子はない。
前回の訪問時は素通りした寝室のドアノブに、宮下が手をかけた。密やかで閉じられた空間に踏み入れば、もう、後に戻ることはできなくなる。
「今日はちゃんと掃除したので、入って大丈夫ですよ」
宮下の苦笑と手を包む温もりからは、緊張で硬くなった真壁に対する気遣いが感じられた。
柑橘系の果物の皮の香りが漂ってくる。微かに甘みのあるそれは、宮下の髪の匂いと同じものだった。
覗き込んだ室内で一番初めに目に入ったのは、部屋の奥に配置されたベッドだった。水色のドット柄の掛布団は、清々しい宮下のイメージに相違ない。ダークブラウンのベッドボードには、半透明のポンプボトルと、煙のように蒸気をくゆらせる白い円筒型の容器が並べて置かれていた。シトラスの香りの発生源は、あのアロマディフューザーらしき白筒のようだ。ベッドの右隣には、木目調の本棚が佇んでいた。本の種類は遠目には分からないが、落ち着いたダークブラウンの色味が白い壁に映えている。
本棚の手前には、漆黒よりも深い黒色のデスクと、黒地に青のストライプが入った背の高い椅子が置かれている。爽やかで柔らかい宮下のイメージには似つかわしくない、クールで無機質な雰囲気は、部屋の空気を幾分か引き締めているように感じられた。
一人暮らしの男の家にしては落ち着いた、おしゃれな部屋だ。一度座ったら二度と立ちたくないと思うほど、穏やかな空気に包まれている。
「すごく、綺麗だね」
「はい。掃除終わらせてからメールしたので」
弾かれたように宮下を見上げると、得意げな笑顔が真壁を照らしていた。
今日の真壁の来訪は、宮下にとって、DVDを返してもらうという以上の意味を持ち合わせていないはずだった。もしかしたら彼は、元々自分を寝室に招き入れようと思っていたのかもしれない……不可解さの向こうに透けて見えた望みが、真実味をもって真壁の目の前に存在していた。
「どうして、わざわざ?」
「……言わなくても分かるかなあって思ったんですけど、そういう相手任せの態度って良くないですよね。ちゃんと言わないと伝わらないものなんだな」
デスクの上に、白いビニール袋が置かれた。宮下に返したライブのDVDだ。何度再生しても、途中までしか見ることができなかった。
次に見るときは、最後まできちんと目に焼き付けることができるような気がする。妄想でも勘違いでもない、宮下との幸せな記憶を思い返しながら。
「DVDは口実みたいなものというか……本当は、急ぎの用事なんて別に無かったんです。俺も、勝負付けるなら――好きです、付き合ってくださいって伝えるなら、今日だって思ってたから。だから、まだ全部見れてないなら、これは真壁さんに預けておきますよ」
「……じゃあ、帰るときにもう一回借りていくよ。また返しに来るから」
満足そうに微笑む宮下と、あと何回、再会を意味する言葉を伝え合えるのだろう。彼との絆が途切れるのが、幸福に胡坐をかいて油断しきったときなのだとしたら、心なんて一生満たされなくて良い。
宮下の大きくて骨ばった手に導かれて、ベッドの端に腰かける。しばらくは二人で肩を寄せ合っていた。どちらも動かないまま、涼やかな香りに肌を撫でられていた。先ほどとは打って変わって、宮下は何もしてこない。ただ、触れるところから熱を与えてくるだけだ。
透き通った汗の空気が肌を掠めた。一瞬で消えたその匂いを追いかけようと体を近づけると、ゆっくりとベッドに組み伏せられる。どこか有無を言わせない圧力が感じられるのに、すぐに振りほどけそうなほど、腕の力は優しかった。
全身が彼を切望して止まない。胸が締め付けられているかのように痛い。
早く刻み付けてほしい。もし終わりが来たとしても、この幸せな時間は確かに存在したのだと信じさせてほしかった。
体の凹凸がぴったりと合わさって、張りのある肌を直に感じる。細身だと思っていた宮下は、硬くしっかりとした骨格と、しなやかな筋肉を服の下に隠していた。いくら二十代半ばの男性で、基礎代謝が高いとは言え、薄く筋肉のついたこの肉体は努力しないで得られるものではない。
絡めた舌と触れあう肌が熱くて、背筋がぞくりと震える。玄関で何度も合わせたはずの唇は、まだ足りないとばかりに真壁を求めてきた。暗い中だというのに狙いが的確なのは、薄っすらと橙色に灯るアロマランプのおかげだろう。
どうせなら、満足するまで貪りつくしてほしい。ずっと一緒に居たい……そんな贅沢な願いを抱く暇もないまま、空っぽになるまで奪われたい。
宮下の指が、壊れ物を扱うように、真壁の胸の一番弱いところを探り当てて一撫でする。こういうことをされるのは久しぶりだ。鼻にかかった、制御不能の甘い声を上げるのも。
「可愛い声。初めて聞いた」
本気なんだか茶化してるんだか分からない睦言が、真壁の息を詰まらせた。綿毛で撫でられているような刺激を必死に耐える喉のすぐそばで、湿った舌が、唾液の跡を残しながら這っている。
「声、抑えないで」
耳元で囁かれた言葉は、要求と呼ぶには慈しみに溢れていた。だから、油断していた。少しだけなら彼の求めに応えてもいいかもしれないとすら思っていた。
――歯を立てられた後、胸の頂を無遠慮に舐られるまでは。
「あっ、あ」
「やっぱり、真壁さんの声、すごく良い。真っ直ぐで透き通ってて、綺麗な声」
胸から全身にかけて、少しの痛みと快感が電流のように流れて、力が入らない。我慢も虚しく上がった声は想像以上の艶を含んでいて、恥ずかしさのあまり顔が紅潮していくのが手に取るように分かった。
目的を達した目の前の男は、恍惚を滲ませた生意気な笑顔で、真壁の頭を撫でていた。……文句の一つでも言ってやらねば気が済まない。
「意地悪」
「だって、ずっと聞いていたかったから。好きなんだよ」
悪びれもせずに好意をひけらかす彼の姿に、続く言葉が失われた。悔しい気持ちは確かに残っているのに、愛情を示す言葉をもらった喜びに全て覆いつくされて、胸がむずむずする。甘さを纏わせて低く響く宮下の声は、身を任せて揺蕩っていたいと思うほど心地良かった。
「……あ、ありがと。俺も宮下くんの声、好きだよ。聞いてて安心する」
「そう、かな? 嬉しいけど、なんか、恥ずかしいな」
照れ隠しとばかりに胸の頂を転がす指は、停滞を許してくれなかった。口から出てくるのは欲を孕んだ嬌声ばかりで、言語の形を為していない。それでも宮下にとっては十分だったのだろう。真壁のジーンズのベルトに掛けられた手には、先を望むが故の焦燥がありありと浮かんでいる。
「もっと聞きたい」
宮下の上半身が、暖色の光で浮き彫りになった。無駄な贅肉がなくて、引き締まっている――彼と抱きしめ合った感触を、全身が恋しがっていた。
ともだちにシェアしよう!

