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この世に完璧なものは存在しない(1)
慣れないスーツを着ていると、いつもより人目が気になって仕方がない。普段はグレーのパーカーにジーンズという気の抜けた服装でいても何とも思わないのに、安物とはいえスーツを身に着けているときは委縮してしまうなんて不思議なものだ。画一的な服装の方が中身の人間の粗が浮き彫りになるからだろうか。自分で自分を馬鹿にしているようで悲しくなってくる。
体型がスラリと見える紺のスーツは、自分よりも恋人の宮下の方が良く似合っている。背が高くて手足が長い彼は、スーツ姿だと更に頼もしい。肩幅も心持ち広く見えるし……などと想像を膨らませている間に、電車の中はぎゅうぎゅう詰めになっていった。
満員電車を出た後、駅のホームを埋める人々を目の前にして一気に気分が萎えた。地下鉄・私鉄・JR・あおなみ線の各鉄道が通り抜ける主要な輸送拠点であり、この地方最大のオフィス街かつ繁華街という複数の肩書きを持っているのであれば無理からぬことだ。しかも、今の時期は春休みの若者が多く、余計に人通りが多い。
人混みは得意ではないので避けていきたいのだが、目的地に向かうためにはあの大きな流れに呑み込まれるほかなかった。考えるより先に大群の一員となっていた自分を自覚して、真壁は人の波に乗ることを意識した。
いつも通りの歩幅で進めないもどかしさにイライラしていると、人混みが得意な人間なんてそうそういませんよ、と恋人に諭されたことをふと思い出す。ここら辺は東京や大阪よりはマシですとも彼は言っていたが、上には上がいるとしても現状が息苦しく不便であることに変わりはない。通路の途中にある店には入るには機を見なければならないし、流れに逆らって自由行動する人物が出現した途端、どの方向に動けば良いか分からなくなってしまう。苦節数分体感時間数十分、やっとのことで改札から脱出した。
普段なら避けるはずの人波の中に真壁がいる理由は、駅より徒歩十分のオフィスビル兼研修施設にある。午前十時から午後一時まで、『成果を上げるミドルマネージャーとなるために』と題された外部研修を受けることになっていた。社内でこの研修を受けるよう案内されたメンバーは幹部候補であり、早い話が管理職になるための心構えを必要とされている。
研修概要に添えられた『服装自由』という文言にも関わらずスーツで家を出たのは、就職活動中にその文句を真に受けて疎外感を味わったことがあるからだ。他の参加者の服装がカジュアルであった場合も考えて着替えも持ってきている。
勤続年数が重なるにつれ、こういう研修だけでなく、そろそろ昇格に向けて覚悟しておけという上司の圧を感じることが多くなった。ちなみに昇格しても給料は変わらないし、仕事内容も大きく変わるわけではない。ボーナスは増えると聞いたが、会社全体の業績に左右されうるものなので期待はできなかった。その癖、休みは減って責任は増える。
こんな後ろ向きな考え方をしていることは恋人には秘密だ。宮下と真壁が知り合ったきっかけは仕事だし、宮下が真壁に向ける好意には、業務時間内での真壁の振る舞いも影響している可能性が高い。少なくとも愚痴は控えるようにしていた。それに、いくら取引先とは言え別会社の社員なので、社外秘というか、あまり知られたくない社全体の意向もある。宮下の所属する東山製薬からは自社ブランドの栄養剤を推奨してほしいと言われているが、真壁の勤務する薬局チェーンとしては競合他社の製品を拡販したいと思っているとかは良くある話だった。
件の研修施設は、地下鉄構内に直結した地下街から地上に上がる出口を抜けた先にある。道中に並ぶレディースファッションの店と雑貨屋には目もくれず、目的の五番出口に直行した。
研修は予定通りの時刻に閉幕を迎えた。かっちりしたスーツ姿の参加者がほとんどだったので、私服は活躍の機会もなく鞄の中で大人しくしていた。
ああいう、人が集まって長時間同じ場所にいるような状況は息が詰まる。大学時代の知り合いがいるんじゃないかと考えて一人一人の顔色を窺ってしまい、座学どころではなくなったこともある。今回の研修では後輩社員の女の子を見かけたくらいで、他は見知らぬ顔ばかりだった。
研修の感想としては、「言うは易く行うは難し」だ。「達成すべき目標へ向かう力は強いが、周りを省みないので次第に孤立しがち」「周りの要求を飲み込みすぎるので、都合良く扱われて進むべき道を見失いがち」――タイプ別に「突っ走り型」「潰され型」と分類された、あまり良くないとされる二種のマネージャーの特徴は身に覚えがある。潰され型寄りの性格のくせに、得意不得意が明確に分かれているため突っ走り型の振る舞いをしやすい真壁は、両者に親近感を抱いていた。
しかし、ミドルマネージャーが目指すべき第三の種族「均衡型」の概要は、「上司や部下の意見に耳を傾け、周りを巻き込みながら自分の進むべき道へ向かえる」……あまりにも抽象的かつ理想的で、そんな奴いるわけねーだろと言いたくなった。特に、真壁は自分が今この均衡型でないと自覚しているので、余計に反抗心が芽生える。下位の短所を併せ持ったところで正統進化はできない。
この均衡型マネージャーの特徴は大きく分けて三つ。自主的に動ける部下を育成するよう心掛けていること、持論があること、上司と同じ目線を持つこと。要素だけ並べられると理想の上司に思えるが、じゃあ具体的にどういう方策を打てば部下が自主的に動くようになるのか、どんな中身の持論なのかはぼやっとしていて曖昧だった。課題や業績目標は業種ごとに異なるので、具体的な例を挙げるのは難しかったのだろう。
そんなアドバイスの中でも一つだけ、これならやれると思ったものがある。『思考の外在化』といって、脳内で考えていることを書き出して見えるようにするものだ。「五月度売上:三百万達成」などの業績目標でもいいし、「北欧一周したい」などの願望でもいい。書き出す過程でマイナスな感情は消化され、覚えておきたいことは定着する。思考内容を客観的に見つめてさらに書き出すことで、目標に近づくために何をしたらいいか、優先順位や方針が定まってくる。Todoリストと似たようなものだ。
研修では、書き出した内容の発表が行われた。「部署内実績百二十パーセント達成のため、実績下位の部下に新プロジェクトを任せ、当事者意識を持たせて底上げを図る」「結婚したい。共働きしてくれる人が良いので、俺が料理できるようになる」「目標貯金三千万。月間支出と年間貯金額を洗い出す」――最後の宣言は真壁のものである。十分弱でひねり出された目標には現実味も主体性もない。老後に必要だと言われる資金を書き出しただけだった。
目標は未来の先に繋がっているものだが、真壁は自分の行く先をいまいち認識できていなかった。今の生活が続く保証なんてどこにもない。何かに向かって歩き続けたとしても、途中でその道が寸断されてしまうような予感が、生きる中でずっと付きまとっていた。
物事を長い目で見るには自分に自信がないと無理だと真壁は思い込んでいた。自分に自信を持つのは真壁にとってかなり難しいことだ。かと言って、直近で達成したいと思うようなことも見当たらない。数か月前であれば「恋人か友達が欲しい」という寂しい願望を書き散らす羽目になっていたかもしれないが、今は両方に当て嵌まる存在がいて、彼のお陰で生活が充実している。
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