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この世に完璧なものは存在しない(3)
「真壁さん、ですよね」
酷く掠れて細かったけれど、真壁の耳にはきちんと届いた。その女性の声は確かに聞いたことがあるはずのに、該当人物を探そうとしても遠い記憶の彼方だ。
確認しようとそちらに向けた顔が勝手に引きつった。それを認めた彼女もまた傷付いたようで、眉がしおしおと下がっていく。記憶を掘り起こすのに時間がかかる時点で、《《昔の》》知り合いの声だと気付くことができれば良かったのに。外出するようになった途端にこれだ。今まで何もなかったのは家に引きこもっていたからだ。
彼女は大学時代の後輩だ。名を南砂羽といった。真壁の在学中に一番仲が良かった相手だと言えるのだが、今はどう思われているんだかわからない。大学時代の仲間に嘘をついて、人間関係を壊した奴として軽蔑しているだろうか。それとも哀れに思っている? 自分が男を好きな男なのだと、一番仲の良かった彼女にすら伝えられていなかったのだから。
いわゆる「普通」ではないなりに過ごしてきた平穏な日常が壊れるまで、保身のために真実を覆い隠していたのは否定できない。真壁が男に恋愛感情を寄せる人間だということ、真壁が己の日常を壊した男である牛田と付き合っていたこと、それらが正しい形で暴かれたのなら良いのだが、その望みが叶えられた可能性は限りなく低いだろう。歪められたものを自分で直すことを放棄して、逃げ出してしまったのだから。目の前の南も、いまの真壁をどういう人間だと認識しているのか分かったもんじゃない。彼女が声をかけてきた真意も分からない。全てから逃げ出した自分を責め苛むつもりなのだろうか。けれど、南の声音からは敵意は感じられない。
「あの、返事してくれるまで離れませんから」
「そうだよ。真壁です。久しぶり、南」
南の口角が少し上がった気がした。けれど、それ以降は無言だ。真壁もとっかかりが掴めず、場を切り開く言葉が紡げない。
それにしても運が悪い。ライブに行ったときも、宮下と初めて待ち合わせしたときも、地元の知り合いなんて見かけなかったというのに。休日か。土日に駅にいるのが悪いのか。大きな違いと言ったらそこしかない。
「旅行か何か?」
「っ……は、はい」
彼女が引いていたスーツケースを横目に放った自分の口調が意外と冷めていて、真壁は驚いた。と同時に酷く後悔した。いかん、と慌てるくらいには彼女を心配する心が残っていたようだ。南は泣き出しそうになっていたが、すんでの所で堪えている。俺、そんなに怖い? と聞くことすら憚られる。当たり障りない会話すら難しく、会話の立て直しは不可能に思えたが、それでもやはり彼女は退かなかった。
わだかまりを抱えているのは自分だけではないのだと嫌でも分かる。南に害意があるとは思いたくないが、気は抜けない。昔は仲が良かったけれど、今は警戒するに越したことはない。とは言え、真壁には友人の彼女に黙って姿を消してしまった負い目があるので、口火を切るのは自分の役目なのだろうとうっすら理解していた。
「今も北陸に住んでるの?」
「えっと、そうなんです。あの、真壁さんは今どこに」
持ち直した彼女はそこまで言って、口を噤んだ。真壁が大学時代の知り合いを敬遠しているのは過去の出来事から明らかなのに、今の居住地を聞かれたものだから気分を損ねると思ったのだろう。こいつが気を遣うなんぞらしくない。喉に何か引っかかったような違和感があったが、顔には出さないように努めた。
「市内に住んでる。ここら辺、って言うと見栄張ってるけどさ。もうちょい郊外というか」
「でも北陸よりは都会でしょう? 電車もバスもたくさん通ってるし、車がなくても生きていけそう。公演もたくさんあるし」
明るくなった口調に、やっと前向きな懐かしさを感じられた。
南は自分の感情に正直で、好感を持った人や尊敬する人にはきちんと言葉でそれを伝える真っ直ぐな性格だ。それゆえ、気に入ったその相手が異性だった場合、恋愛感情を抱いているのではないかと誤解されることが多く、悩んでいた姿も記憶にある。真壁も彼女に慕われていてよく歌声を褒められていたが、「そういうの」じゃないですよーと釘を刺されたこともある。その方が真壁は気楽だったけれども。
一緒に昼ご飯を食べながら笑って話し合っていたのが何十年も昔のことに思える。嫌な過去と同じ箱の中に閉じ込めてしまったせいで直視することができなかったが、共に大学時代を過ごした南との記憶は失い難いほど大切なものだったのだ。
「あの、真壁さん」
溜息が後に続く言葉を打ち消す。その先の言葉は何となく予想できる。今まで何をしてたのか、どんなことがあったのか聞こうとしてやめたのだ。期待していた反応が得られなくて、互いに傷つく可能性があったからだ。真壁も本当のことを言う気にはなれなかった。最近は元気だけれど、それまでは上手くいかなくて何度も嫌な思いをしたよ、と言われては気も滅入るだろう。
真壁があの地から離れた後、彼女は、大学時代の友人たちは……牛田は、どうなったんだろうか。どのような人生を歩んでいるのだろうか。真壁のことなど黒歴史として闇に葬り去って、全て忘れてのうのうと暮らしているのだろうか。それとも、少しでも想い出の端に残して、後悔してくれているのだろうか。どちらにしても、真壁の望むものではない。だったらどうしてほしいというのだろう……どうしたいというのだろう。考えても答えは出ない。強いて言うならどちらでも良い。忘れてくれていても良い、覚えていてくれても良い。崩れたものを無理に直そうとまでは思っていなかった。
宮下と交流を深める中で、過去の自分にも努力できることがあったはずだと後悔もしたけれど、実際に過去の問題に手を付ける機会は一生訪れないと思っていた。もう終わったことだから、次に向けて進もうと思えたのだ。今更過去の何かが変わったところで、あのときの真壁が傷ついた事実は変わらない。色褪せた昔のことだと片づけられたのも、本当に最近のことだ。過去の思い出たちは何もしてくれないどころか足枷で、変わることが出来たのも全部一緒に歩いてくれた宮下のおかげだ。
変えようと思って人を変えることなど不可能だ。今この場にいない者であるなら尚更。だからと言って、日々細胞が生まれ変わる人間に永遠とか不滅を求めるのも間違いだ。真壁が本当のことを伝えたところで、南がどう受け取るのかわからないし、昔の出来事が変わるわけでもない。けれど、彼女は声をかけてくれた。今の真壁を知ろうとしてくれたし、過剰な踏み込みを躊躇う思慮深さもある。今日会ったのも偶然で、これから先だってそうそう会えるわけでもない。話せて良かったと思える何かを残してあげたい……が、再来した気まずい雰囲気をどう打破するべきか。何かとっかかりが欲しい。そういえば、誰かのことを忘れている気がする。
「……お取込み中のところ失礼しますけど、まだかかりそうですか?」
控えめにかけられた恋人の声に、彼を放っておいてしまった申し訳なさがじわじわと迫って来る。けれど、肩に置かれた大きな手は温かくて、真壁を随分と安心させた。
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