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面倒なものほど愛おしい(3)

 宮下の家にあるものの全ては、一人暮らしには手が余る規模のものばかりだ。家の広さ然り、冷蔵庫の大きさ然り、調理器具の多さ然り。大は小を兼ねるという価値観なのか、別の理由があるのか。  考えたくもないことだけれど、宮下は元々この家で、真壁ではない、別の誰かと二人で過ごしていたのではないかと真壁は疑っていた。宮下は掃除担当で、その誰かが料理担当だったのだろう。その人と別れた後、調理器具や大きな冷蔵庫が残った。元々料理をその人に任せていた宮下は、自炊を頑張ってはみたのかもしれないが、キャパシティオーバーになるのが目に見えていたので早々に見切りを付けたのではないだろうか。独りでに広がる妄想に、頭がじわじわと締めつけられる。  前の人の痕跡は、他には何も残されていない。食器は買い足したと言っていたし、ベッドや洗面用具は一つだけ。あらかた処分されたのか、真壁の推測がただの妄想で的外れなのかは宮下本人に聞かないと分からないことだ。  夜の営みの中で、宮下の「好み」が元彼に影響されてのものだと感じて苛立ったことは一度あるけれど、知りもしない、いたかどうかも定かではない先住者の痕跡を見いだしたのは初めてだった。元彼なんて掃いて捨てるほどいるであろう宮下と過ごしていて、その手の『影』に苛まれたことがほとんどないのは幸運なことなのかもしれない。 ***  徒歩十分のスーパーから帰宅後暫くして、寒色系で統一されたカーテンの隙間から赤橙色の空が見えた。  からっぽだった冷蔵庫は、買ってきた食材によって多少は賑やかになった。今日使うつもりの牛肉、しらたきと、平日の夜に使えそうな「混ぜるだけでできる中華シリーズ」の調味料が数種類と卵。野菜はあれこれ買っても使い切れないので、玉ねぎを買うに留めた。サラダ油やだしの素、コンソメ、醤油、みりん、料理酒などの調味料や米は、念のために小サイズのものにした。まとめてコンロ下の収納に入れてある。 「包丁とまな板ってどこ?」 「………………流しの下の引き出し、だったような」 「あった。ありがとう」  料理初心者には一汁一菜すら危うく、一汁三菜など夢のまた夢だ。複数の鍋を使う必要がある献立では片方の世話が疎かになり、食材を焦がしてしまう恐れもある。一つの器で完結する方が安心だ。そういうわけで、今日は牛丼を作ろうと決めていた。 「悠人くん家のコンロ、平べったくて板って感じだよな。もしかしてIHか?」 「そうですよ。ここにスイッチがあるので……ん、あれ、動かない……?」  コンロの側面には「電源」と書かれた四角いボタンがでかでかと存在を主張しているのだが、宮下は気付かずにIHの操作ボタンをカチカチと押し続けている。その動作はあまりにも初々しく、ここに数年住んでいるはずの家主の振るまいとは思えないが、真壁の庇護欲をかき立てるには十分だった。真壁が脇からひっそりと電源ボタンを押すと、IHはピピッと可愛らしい電子音を鳴らして操作を受け付け始めた。宮下は驚いた表情で真壁を見たが、すぐに事の次第を把握し、吹き出すように笑った。真壁も釣られて微笑んだ。  今まで料理の味付けはめんつゆか醤油の二択だった真壁にとって、みりんや料理酒などの馴染みないものを加えるのは新鮮だったが、味の予想が全く立たず不安でもあった。結果的にレシピを信じて正解だったようだ。程良く優しい味付けになった。 「ごちそうさまでした。美味しかったですよ」 「レシピの力だよ」  手を合わせてぺこりと軽くお辞儀する宮下は満足そうだった。取りあえず一安心だ。  自分の家にいるときだと、食器洗いは面倒くさくて後回しにすることがままあるのだが、一応ここは人の家。シンクに油汚れのついた皿を放置するのは気が引ける。だらしない男だと思われたくないという、見栄を張るような心持ちで食器を洗っている間に、宮下は風呂を沸かしてくれていた。ありがとう、と互いに軽く声を掛け合った後、真壁は明日の身支度を調えることにした。  明日は仕事。早番だ。この家から直接職場に向かったことはないが、通勤時間は今までよりも確実に増えるだろう。少し早めに家を出なければ、と考えながら仕事鞄をリビング端に設置する真壁の傍に、宮下が近くまで寄ってきていた。 「明日、何時に家出ます?」 「八時のつもり」 「……俺、起きられないかも。鍵渡しときます」  キッチン側面裏の壁のキーフックから鈍色の鍵を取った宮下は、真壁へとそれを手渡した。キーホルダーもストラップも何も付いていない、純然たる初期状態の鍵だ。少しひやりとした硬さに、手のひらサイズの見た目以上の重みをずしりと感じた。 「ありがとう。分かりやすいように、なにか付けとこうかな」 「……お揃いのストラップ、とか?」  お揃い、という熱に浮かされたような軽い響きに胸がくすぐったくなる。振り返ってみれば、宮下と統一感のあるものを持ったことはないし、持とうと思ったこともなかった。揃いのものを持つことに重きを置くような価値観ではない。安心感や連帯感は、物質によってではなく日々のやりとりによってもたらされるべきだと思っていた。物よりも言葉が欲しかった。過去形にしかならない物質ではなくて、現在進行形の感情を確かめたかった。恋人との間に物を残せるほど真壁の心は強くなかったのだ。  ……けれど、手のひらの上のこの鍵は、一般の無機物とは全く違う特別なモノとして、真壁の中にカテゴライズされている。恋人の家の鍵を預かるという責任の重みは確かに感じているのに、それ以上に自分が舞い上がっているのが手に取るように分かる。この鍵は特別なのだと示したい、自分と宮下だけが分かるようにしておきたい。秘密の暗号のように。 「お揃い、か。良いな、それ。明日、俺の仕事が終わったら一緒に買いに行く?」  期待を込めてぱちりと瞬かれた宮下の瞳が、喜びの感情をいち早く真壁に伝える。「目は口ほどに物を言う」という諺がこれほど当て嵌まる人も珍しい。付き合う前から、彼の視線は言葉よりも雄弁だった。初めてこの家に訪れたときも、会う度に訪れる別れのときも、今も。

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