9 / 31

◇ 月砕 ◇ 壱

 街が賑わってくる頃にはすっかり宵闇が降りて、生暖かい夏風にまじってジットリとした湿気が何ともうっとうしい。  賭場周辺にはあまり目つきのよろしくないような連中がウロウロと出入りを繰り返し、パッと見ただけでもそこが無法地帯らしいのが窺えた。  こんな処で紫燕は生きているのか――  そんな思いにますます胸が逸って仕方ない。加えて先程の男らのいかがわしげな会話が脳裏を巡り、遼玄はいてもたってもいられない思いに拳を握り締めた。  とりあえずは旅の道中に立ち寄った客を装って賭場に入り、様子を窺うことにした。  中に入れば更に空気の悪さを目の当たりにするようなゴロつき連中であふれ返っている様子に、自然と眉間のしわが増す。畳だか藁の敷物だか知らないが、それらに湿気が混じったようなニオイが何ともいえずに鼻をつくのも心地悪い。ふと、客らの中心を見やれば、生成色の着物に身を包んだ男が一人、壺を手に鋭い目つきで皆を見渡す様子が飛び込んできて、と同時に目の前が真っ白に弾けるような感覚が全身を金縛りにした。  紫燕か――!?  薄茶色のやわらかなくせ毛の髪、  褐色の瞳、  形のいい指先、  間違いない。どこから見ても紫燕に瓜二つだ。  賭場の入り口に立ち尽くしたまま、遼玄はしばし硬直状態を解くことができなかった。その背後からポンと肩を叩かれて、 「旅のお客さん、どうしなす? お前さん方もどちらかに賭けてやっておくんなせえよ」  両手を擦り合わせ、猫背にしながら下手(したて)にそんな言葉を掛けてくるのは代貸しの男だろうか、賭場を営んでいる側の立場の者のようだ。まるでいいカモを掴んだとばかりのニヤけ顔の裏に、下手に出てくる態度の真意が透けて、一目瞭然だった。  他の客らの配は出揃ったようだ――  代貸しらしい男が急いたようにしきりに賭けを勧めてよこすその様子に、後はお前らだけだぜというように、一瞬賭場の中がシーンと静まり返った。  何をしてるんだ、待たせんじゃねえとばかりに睨みをきかせてくる者、他所者はすっこんでろとばかりに舌打ちをする者等様々で、あまりいい雰囲気でないことはすぐに分かる。そんな皆をなだめるように、先程肩を叩いてきた男がより一層猫背気味で『さあお早く』と催促をして寄こす。  もたついている様が気にかかったのか、賽を振っている紫燕らしき男がちらりとこちらを見やったのが分かった。視線と視線がぶつかり合い、確かに互いを確認したにもかかわらず、だが賽振りの男はほんの一瞬で視線を外してしまった。  やはりこちらのことに見覚えはないというところか――  分かってはいたことだが、そんな紫燕の態度を目の当たりにして、複雑な思いがあふれ出した。  今までの気の遠くなるような永い時間が瞬時にフラッシュバックする。  熱い気持ちと慟哭と、だがそんなものに一切見覚えを示さない紫燕らしき男の冷めた態度がグルグルと全身を奇妙な感情で押し包んでゆく……。  遼玄は何かに突き動かされるように畳の上に一歩を踏み出すと、先客を押し退けるようにして賭場のど真ん中へと歩を進め、賽振りをしている男の真正面にドカリと腰を下ろした。  これには先にそこに座っていた客が驚き、当然の如くおとなしく場を譲るはずなど無い。 「ンだとっ!? この野郎ッ、ふざけたマネしやがって!」  それまでそこに陣取っていた男らが声を荒げ、だが遼玄はそれらを全く相手にしないままで、それどころか酷く落ち着き払った様子で男のいた席から動かない。  そして目の前の賽振り師をちらりと見上げ、自分の持ち金を懐から差し出すと、低い声でたったひと言、 「悪ィな兄さん――もう一度その賽を振ってくんねえかな?」  突拍子もないないような台詞を言ってのけたのに、その場の全員が驚いたような目つきで一斉にこちらを凝視した。 「ざけんじゃねえっ! てめえ、何言ってっか分かってやがんのかッ!」 「他所者が出張ったマネしやがるとただ置かねえぞ!」  一瞬で賭場が怒号に包まれた。  立ち上がって座布団を叩きつける者をはじめ、着物の裾を捲りあげて膝を立て、懐の短刀をにおわせる者も居て、辺りは騒然、しばし手の付けようのないくらいの大騒ぎと相成った。  これには代貸しの方の男らも黙ってはおれずといったところか、先程の猫撫で声とは打って変わった凄みのきいた調子で、『お客さん、どういうおつもりかね』と肩を鳴らす。  だが遼玄はまるで落ち着いた様子でそこに腰掛けたまま、目の前の賽振りを見つめたままピクリとも動じない。尋常ではない図々しさは、ただの旅の客には思えないふてぶてしささえ感じさせる。余程自信があるのか、あるいは単に怖いもの知らずなのか、読めないところがまた不気味さをかもし出す。  この男に逆らってその場で刃物など見せようものなら、逆にブッた切られそうな雰囲気しかり、皆はしばし苦虫をつぶしたような表情で、成り行きを見守るしかできないといった状況に追い込まれてしまった。  静まり返った賭場で、誰しもが遼玄を見据えたまま動かない。  静寂が異様だった。  今、この状況で顔色ひとつ変えずにいるのはただ二人、それは遼玄と賽振りの男だ。彼らは互いを見合ったまま、どちらからとも視線を外さずに押し黙っているだけだ。特に賽振りの男の方は、焦りどころか感情がまるで見えない無表情。対する遼玄の方は、口元に薄い笑みを伴いながら鋭く動向を窺っているといった調子だ。  緊張が続く中、どうにも反応しない様子の賽振りを前に、遼玄の方が先に口を開いてみせた。

ともだちにシェアしよう!