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◇ 甘夢 ◇ 壱

――紫燕。  シエンとは誰だ。何故アンタは俺をそう呼ぶのだろう――?  夜風が格子を抜けてそよそよと心地ち良い。触れ合う肌のあたたかさに不思議な安堵感を覚えて、なぜだかこのまま深い眠りに落ちてしまいたくなる。  こんな気分になったのはいつ以来だろう。親代わりだった師匠が亡くなってからこのかた、心の底からゆっくりと眠りにつけたことなど皆無であったことが朧げに脳裏を巡った。  それとは別に、自らを抱き締めるこの男の温もりに安堵感を感じながらも、心の片隅で小さな何かがちくりと甘い痛みを伴っていることにも気がついていた。  激しい抱擁の中で時折、この男が呼び続けた誰かの名前がこびりついて離れない。色めく吐息に混じって漏れ出すその名に感じたことのない焦燥感が湧き上がる自体に戸惑いを隠せなかった。  彼が呼び続けた誰かの名が、胸に秘めた想い人のものであろうことは訊かずとも明白だ。その名を呼ぶ時のこの男の情愛を痛いくらいに感じ、その度に胸の中を掻き回されるかのように気持ちが逸るのが苦しくて仕方なかった。男とも女ともつかないような珍しい名の持ち主、それはいったいどんな人物なのだろうか。  そんな想像を巡らせる度に胸の奥が痛む、この想いは嫉妬にたがわない。出会ったばかりの相手を前に言いようのない感情が急激に増大していく感覚が怖くも思えて、ふと平静を装いながら問い掛けた。 「シエンって……いうのか? あんたのイイ人」  その言葉に驚いて、遼玄の方はハッと瞳を開くと腕の中に抱き包んでいた彼を見やった。 「――!?」 「ずっとそう呼んでたぜ? 俺のこと抱きながら……何度も何度もそう呼んでたから……さ」  フッと翳らせた瞳とは裏腹に口元には軽い笑みを携えながら、紫燕と瓜二つの彼は自ら寝返りを打つと、こちらへと向き直り、そして腕の中へとうずくまるような仕草をしてみせた。まるで迷い猫のように小さく肩を丸めては、ひと時の安堵に浸るように身体を震わせる。  堪らない思いに、遼玄はギュッとその肩を引き寄せながら思いのたけを口にした。 「お前のことだ……! 俺は……お前のことしか考えていない……! ずっとずっと……もう永い間ずっとお前だけを……」 「……っ、俺だけ……? 嘘がヘタだなアンタ」 「嘘じゃねえっ……! 俺はずっと……お前を探してたっ……! 生まれる前からずっとだ……! 気の遠くなるような永い年月をずっと……お前に会うことだけを生き甲斐にしてきたんだ……っ! ずっと、ずっと……お前が想像できねえくらいの昔から……ずっとだ!」  声を震わせながら必死の様子で繰り返されるその訴えは、おおよそ嘘とも思えない。だが少し冷静になって考えてみれば、あまりに陳腐過ぎて苦笑いが抑えられないのも本当のところだ。  そう、俺は紫燕なんて名前じゃない――  別の誰かを重ねているだけだろう、そう詰りたいのを抑えながらわざと軽快に微笑んでみせた。 「なあ、それって……口説いてくれてんの……?」 「ああ、そうだ! 口説いてるよ……何度生まれ変わっても……俺はお前だけをっ……!」 「はは、すっげえ口説き方すんのな。あんたってホントおもしろいヤツ……。けど、満更じゃねえよ。あんたみてえなイイ男にそんなふうに言われたら……素直にうれしいって思えなくも……」  その先の言葉をさえぎるように唇をふさがれた。頬を強く掴まれて、痛いくらいに唇を重ね、合わせてくる。無造作に、唇ならず頬や額、瞼に鼻筋、そのすべてを奪い取るかのような激しくも甘い口づけが繰り返される。  ふと薄目にその表情を窺えば、甘さとも欲情とも裏腹の苦痛にゆがめられたような瞳にハッとさせられた。  酷く切なさそうに、そして辛そうに貪るように合わされる口づけに既知感覚がよぎる。  この瞳、この感じ、辛そうに瞳をしかめるこの顔を俺はどこで見た――?  何故そんなふうに思ったのだろう。遠い昔にどこかで感じた懐かしさのような安堵感が、確かにこの男にはある。  いつ、どこでだったのか――  思い出そうと瞳を閉じれば、先刻頭の隅に浮かんでは消えたかすかな光のようなものがよぎっては、意識を揺さぶられる気がしていた。 ◇    ◇    ◇  そのまま眠ってしまったのか、うとうとと瞳を開ければ、格子の外がほんのりと明るんでいるのに夜明けの気配を感じた。  ほんの少しの時間ではあったが、こんなにぐっすりと深い眠りについたのはいつ以来だろう。背中越しに感じる肌の温かさが何ものにも例えられないような心地よさをもたらしてくれる。自らを抱き包むようにして眠っている男の腕にそっと指を伸ばし、そして軽く口づけた。  きっとこの男はまだ眠りの中だろう。気付かれないように息をひそめてそっとそっと口づけを繰り返す。先程、この男が自分にしてよこしたそのままを返すように口づけた。  そうしていると、求め合った昨夜の余韻が脳裏を巡り、と同時に身体の中心が火照り出すような気がするのはもはや錯覚ではない。こんな短期間に身体ごと、心までをも揺さぶれたのは初めてだ。  いや、違う――  遠い昔に、同じような激情を感じたことがあると思うこの感覚は何だろう。

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