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◇ 夜叉 ◇ 壱
所詮は甘い夢、罰を背負って輪廻を彷徨う身の上で、それを追うことは許されなかったということか――
目の前から『紫月』が姿を消し、そして再び彼を手中に抱いたその時に、こんな想像もし得ない程の変わり果てた姿になっていようなどとは、この時の遼玄には想像さえ出来得ずにいた。
永い間の夢だった紫燕の生まれ変わりをその手に抱いて、甘夢に浸ったのは束の間。共に生きようと固く交わした約束がこんな形で壊れていくのを目の当たりにするだなんて……!
これが罰なのか?
これが五龍が科した永遠の苦渋だというわけなのか――!
目の前の大地が歪み、乾いた土にボタボタと大粒の雫がこぼれて落ちた。遼玄の涙だ。その傍らには仲間である帝雀、剛准、白啓がたたずみ、誰もが苦渋を飲み込んだような表情で拳を握り締めていた。
腕の中に最愛の男を抱えたままで、このどうしょうもない喪失感にすべての感情が凍てつくような気がしていた。
◇ ◇ ◇
腕の中で冷たくなっていく身体を無意識に支えているのが精一杯、唯一人の愛しい男を抱き包む腕はダラリと垂れ下がり、まるで力が入ってはいない。行き場を失った激情をそのままに映すかのように、毒々しい程に赤く染まった夕闇の中で、遼玄は呆然としながら、その視線の先には何も映してはいないようだった。
紫燕の生まれ変わりであろう『紫月』と巡り合い、そして肌を重ね、永い間の想いのたけをぶつけたのはつい半日前のことだ。
共に生きようと約束を交わし合い、朝もやの中で至極の夢に浸っていたのは、ほんの僅かに先刻のこと――
幸せの絶頂を噛み締めるような甘やかな笑みを浮かべ、少し照れたような仕草で紫月が厠へと向かった時の後ろ姿が鮮明に脳裏をよぎる。
もぞもぞと布団を抜け出し、はにかんだような表情で微笑んだ。
「ん……? どこ行く?」
「ああ、ちょっと手水にさ」
こっ恥ずかしいから付いて来んなよとばかりに、悪戯そうに微笑んだ彼の横顔を思い出せば、ボロボロと玉のような涙が頬を伝い、流れて落ちた。
何故、あの時すぐに彼の後を追わなかったのだろうと、後悔の念に全身を悪寒が伝う。何故、共に厠へと足を運ばなかったのだろうと、自らを呪いたい程の苛立ちが全身を苛む。
何の疑いも持たぬままで、何の予測もできないままで、天をさまようような幸せの図中に浸り、ウトウトと眠りに落ち、すぐに彼が帰って来ると信じ込んで甘夢を漂った。そのまま深く眠り込んでしまったのだ。
気がついた時は既に陽が高くなっていて、隣りの部屋で休んでいた帝雀らに揺り起こされて、現状を理解した時には遅かったということだ。
厠に行った白啓が紫燕のものらしき草履が散乱しているのを発見、その周辺には何かを引きずった痕のようなものが地面を這い、宿前の通りへと続いている様子に嫌な予感が脳裏をよぎった。
状況から察するに、紫燕は厠で誰かに捕らえられ、連れ去られてしまったということだろうか。誰しもの脳裏には咄嗟にその光景が思い浮かんだ。もしもそうであれば一刻の猶予も儘ならない。おそらくは昨夜の賭場にいた元締めとかいう連中らの仕業であることにほぼ間違いはないからだ。
取るものもとりあえずに宿を出て、隣り街へと向かったのは、すっかりと午後の陽射しに変わった頃だった。どんなに急げども、陽が落ちるまでに辿り着けるかギリギリのところだ。
途中の民家で馬を借り、酷な程に走らせて、やっとの思いで賭場に戻ったのは数刻の後。胸騒ぎのする程、真っ赤に染まった夕空が、薄雲に紛れて気味の悪いくらいによどんでいる、そんな時分だった。
真っ先に賭場に向かったが、そこに人の気配は無く、昨夜の乱闘の痕がそのままに放置されていた。
「いねえよ……畜生ッ、何処行きやがった……ッ!」
「元締めって奴のヤサじゃねえのか!?」
誰でもいいから取っ捕まえて胸倉を掴み、居所を訊き出そうとする遼玄を抑えて、白啓と剛准が近くの路地裏に潜り込んだ。大騒ぎを起こして、彼らに撤収の余裕を与えない為だ。
放浪れのヤクザ者を装って、それとなく探りを入れれば、彼らはどうやら繁華街の広小路を抜けた辺りの林を少し入った所に、大層な体裁の邸を構えているらしかった。
そこへ向かう途中で、道から外れた林の奥の方から出てきた男の二人連れを見かけて、遼玄らは林道に身を潜めた。見てくれから察するに、一家の子分の男のようだ。コソコソと周囲を気に掛けながら、割合急ぎ足で目の前を通り過ぎてゆく。それに勘付かれないように気を配りながら、彼らの会話に聞き耳を立てていた。
「兄貴、あのまま捨て置いてきちまってよかったんですかい?」
弟分らしい細身の男が、もう一人のガタイのいい方に、苦々しく口元をひん曲げながらそんなことを耳打ちしているのが目に入る。相手は二人連れ、このまま取っ捕まえて元締めの所まで案内させるのはワケないことだが、どうにも彼らの様子が引っ掛かって、もうしばらく経緯を窺うことにした。だが、その直後になされた会話の内容を耳にした途端、絶句する程の衝撃が一同を硬直させた。
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