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◇ 恋慕 ◇ 壱

 和国、大正時代――  澄み渡る青空は高く、すぐそこに秋の気配が感じられる。  庭師の仕事を一段落終えて、その出来栄えを観察しながらホッと一息入れていた時のことだ。 「ねえ、あんた……名前何てーの?」 「――!?」  一段高い縁側から誰かに急に声を掛けられて、ハッとそちらを振り返った。  物心ついた時から親はなく、孤児であったのを拾って育ててくれたのが、ここの庭師をしていた親方だ。それから干支が一周りする頃にはその親方も亡くなって、本格的に後を継いだ形で現在に至る。  ここは花街にある名の知れた遊郭だ。  遊郭といっても主に男色の客を相手に男が男に色を売る処、親方がまだ健在だった頃にそう教えられた。まあ、庭師の自分たちにはおおよそ縁のない世界だと深くは勘繰らずにきたが、それでも年頃になってみれば、その意味も薄々と理解できるようになった。  仕事の合間に垣間見る何とも色香を伴った店子たちが、夜になると華やかに灯される邸の襖の向こうで何をしているのかということも想像に容易い。その遊郭の庭を美しく彩ることが自分たちの役目であり、仕事であるわけだ。  邸の塀を挟んだ隣りの竹林に小さな小屋をあてがわれて、ほぼ彼らと同じ世界で寝食を共にしているようなものではあるが、とはいえ店子と親しく会話を交わす機会などは稀で、全くの別世界に生きているといっていい。  他に行くあてもないし、何より恩のある親方から託されたこの仕事から離れるつもりもないわけで、だから格別には何の疑問も抱かぬままにこの生活を続けている。遊郭というこの邸の中で何が行われていようと自分には関係のないことだ、そう思って庭を綺麗に彩る使命だけに目を向けてきたのだ。 「ねえ、名前教えてよ。アンタがいっつもこの庭を手入れしてんのがさ、俺の部屋から見えるんだ」  自分を覗き込む色白の頬が美しく作られた陶器のようで、図らずもドキリとさせられた。  唇はほのかに色付いた桃の花芽のようにふっくらと形のよく、大きな瞳は褐色が陽に透けて、まるで人形のようだ。やわらかなくせ毛ふうの髪が、ちょうど鎖骨を撫でるくらいにまで伸びていて、何とも艶めかしい。おおよそ自分とは縁のないような別世界にいる生き物のように思えるその男は、おそらく店子なのだろう。訊かずとも分かる。  そんな男にあまりにも親しげに話し掛けられて、咄嗟には返答につかえる程のちょっとした衝撃を受けてしまった。  ポカンと硬直し、瞳をぱちくりとさせているこちらの様子が可笑しかったのか、その彼はクスッと笑うと、男のものとは思えないような白魚の手をいきなり突き出してよこしたのに、より一層驚かされてしまった。 「そっち行っていい? ちょっと手、貸してくんない? ここ、高いから降りるのたいへんなんだ」  見れば、確かに飛び降りるにしては高さのある縁側が目の前にそびえている。 ――ああ、そういうことか。思うより早くに、差し出された手を受け止めるかのように、自らも両腕を広げていた。それを見た彼はうれしそうに微笑うと、トンと勢いをつけて庭先へと飛び降りてきた。  フワリと立ち上った香りが淡い花のようで、またもやドキリとさせられる。突然の出来事に、しばし言葉を失ったまま、呆然と立ち尽くしていた。 「俺ね、紫月ってんだ。ガキの頃にここのお父さん(店主)に拾われてきたの」  『あんたは?』というように覗き込まれて、ようやくと我に返った。 「名前、教えてくれよ。アンタ、俺と同じ歳くらいじゃねえ? いつも庭木の手入れしてんの見てて、話してみてえなって思ってたんだ」  屈託のなく、だがそんな中に何ともいえない色香の漂うような視線を向けられて、理由もなく心拍数が上がるのを感じていた。そんなさまを隠すかのように、必死で訊かれた問い掛けに答えた。 「ああ、俺はここの庭師だった親方の後を継いでて……今は一人でやってる。名前は遼二ってんだ」 「へえ、遼二かー」  よろしく、とばかりに首を傾げながら再び顔を覗き込まれて、またもや返答に困り、何だか頬の熱までもが上がるような気になって、遼二はおずおずとうつむいてしまった。

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