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◇ 恋慕 ◇ 四
「なあ、あの花もアンタが育ててんの?」
庭の中央にある池の周辺で風にそよいでいる花々を指さして、紫月はそう訊いた。
「あ、ああ……桔梗っていうんだ」
「へぇ、桔梗か。綺麗な色だよなぁ? 俺の名前と一緒で紫色だし!」
そう言ってやわらかに瞳を細める彼の為に、遼二は池の傍まで歩を進めると、群生している中の一輪を摘んで彼のもとへと差し出した。
「よかったらコレ……」
「え!? 俺に……? 貰っちまっていいの?」
うれしそうに瞳を丸くしながら、彼はそっとその香りを確かめるように顔を近づけてみせた。
と、その瞬間に、花の茎を持つ互いの指先が軽く触れ合って、二人は同時に互いを見合った。
――初秋の涼やかな風が頬を撫で、髪を揺らす。
その瞬間に、フッと、それまでにこやかだった彼の笑顔が哀しげに翳ったような気がして、ドキリとさせられた。
「なあ、アンタさ……ずっと此処で庭いじりしてんの? それとも最近来たばっかりか?」
「え――?」
「俺はさ、ガキの頃に此処に連れて来られて以来、ずっと邸の中で掃除とか手伝わされてたんだけど……俺たち一度も会ったことないもんな? アンタのことを見かけるようになったのは部屋を移った最近なんだー」
確かに広い遊郭の中では、こうして誰かと出会ったり近づきになったりすることさえ稀だ。ましてや店とは直接関係のない庭師の自分と店子の彼との間柄では、それで当然だろう。遼二は彼の問い掛けに答えるように、自らのことを手短に述べた。
「俺もガキの頃に此処へ連れて来られたってのは一緒だ。俺、親がいなかったから……。庭師をしてた親方に拾われてさ、育ててもらったんだ」
「へえ、そうなんだ。だったら俺たち、同じなんだな?」
今しがた翳らせた表情を今度はフイとゆるめると、紫月はうれしそうにそう言って微笑んだ。
「な、又ここに来てもいい? またアンタに会えるかな?」
「え? ああ、もちろん……俺は毎日ここで手入れしてるから……」
それを聞いて、紫月は再びうれしそうに微笑った。
それ以来、言葉通りに紫月は度々庭へとやって来るようになった。
一緒に過ごせるのはほんの僅かな時間ではあったが、ほぼ毎日のようにやって来る彼と少しづつ会話を交わすようになり、そうする内に気心が知れるようになっていった。
遼二にしてみれば、あまり邸内の人間と交流する機会など無かったのもあって、最初は戸惑ったが、それでも時を重ねる内にだんだんと彼が訪ねて来る時間を心待ちに思うようになっていった。彼にまた会えた時の為にと鉢に植え付けておいた桔梗の花を差し出せば、初めての時と変わらぬ笑顔で花の香りに顔を近づける仕草に、思わず心があたたまるような気にさせられた。
不思議な感覚だった。
一緒にいるだけで安らぐような、それでいて心躍るような何とも言い難い感覚。そんな気持ちが、より深いものに変化していくのに大して時間は掛からなかった。
午後の日差しが傾き出す頃になると、決まってソワソワと人待ち顔になる。あの少々高い縁側から手を伸ばし、飛び降りて来る紫月の姿を連想しては、早くそれを見たいと心は逸った。
初めて友達ができたことがうれしくて、楽しくて、それでいて彼が帰ってしまった後は何だか急に寂しくなっては心が揺れた。それは紫月の方も同じだったのだろう、頬を紅潮させながら縁側を駆けて来る足取りが、それらを物語ってもいた。
こいつと一緒にいると不思議と心が和む――
二人は次第に互いを大事に思うようになり、と同時に一緒に過ごす時間も長くなっていった。
紫月が遼二の住む竹林の小屋を訪ねて来たのは、そんなある日のことだった。ついぞ先刻までここへ遊びに来ていて帰ったばかりだというのに、ほんの数時間でまた訪れた彼に、遼二は驚きながらも心が温まるようなうれしい気持ちになった。
だが、そんな遼二の思いとは裏腹に、紫月の方は何やら物憂げだ。
宵の口、まるで人目を避けるようにして走って来たとでもいうのだろうか、すっぽりと顔を隠すように覆われた羽織とは裏腹に、弾んで乱れた呼吸に何ともいえない焦燥感がこみ上げる。
「どうしたんだ、こんな時間に……?」
遼二は湯を浴びたばかりの髪を濡らしたままで、紫月の傍へと歩み寄った。
「ごめん、どうしてもお前の顔が見たくなって……来ちまった……」
にこやかな笑顔ながらも、何となく蒼白そうに感じられる雰囲気に、慌てたように彼を小屋の中へと促して扉を閉めた。まるで誰かに見つかってはいけないとでもいうように肩をすぼませた彼の様子が酷く気になったのだ。
「とにかく入って!」
遼二は濡れた髪を拭いながら、紫月の為に腰掛ける場所をこしらえた。
扉を閉めたことで安心したのか、紫月の方はほうっと小さなため息をつくと、ようやくと羽織っていた着物から顔を覗かせた。
いったいどうしたというのだろう、何だか様子が変だ。
「どうした? 何かあったのか……?」
隣りへと腰を下ろし、顔を覗き込むようにしてそう訊いた。
だが、紫月は薄く笑うだけで格別には何も言おうとはしない。
しばらくの後、
「なあ遼二……実は俺……」
――披露目の日が決まったんだ
ポツリと呟かれたその言葉に、『えっ!?』というように彼を振り返った。
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