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◇ 荒天 ◇ 壱
「いつか披露目の日がくることなんてさ、此処に来た時から分かってたことなのによ……いざその日が決まったって聞いた途端に怖気づくなんて、俺って情けないヤツだよな?」
決して華奢ではない、どちらかといえば長身の身体を丸めながら、膝を抱えて紫月はそう言った。途切れ途切れにつぶやかれる声は細くて切なくて、聞いているこちらの方が辛くなる。彼もまた、ひどく苦しそうだった。遼二はいたたまれなくなり、だが何と声を掛けていいのか分からずに、ただただ隣りの彼を見つめるしかできずにいた。
それ以前に胸を締め付けられるような苦しさがこみ上げて、どうしょうもなく気持ちが逸る。披露目の日が決まったということの意味を考えただけで、何ともいいようのない何かに全身を掻きむしられるようなのだ。
この気持ちはいったい何だろう、単に友人に辛い思いをさせたくないというだけでは、到底表しきれないような複雑な気持ち――
酷く不快で、気持ちが逸って、今にも暴れ出したいような奇妙な感覚が全身を這いずり揺らす。
ふと、目の前の彼を隠してしまいたいような衝動に駆られた。誰の目にも触れないように、誰の手にも触れられないように、彼を隠してしまいたい。
――二度と披露目の日などこなければいい。
そんな思いに共鳴するかのように、紫月もまた、うつむき加減だった視線をチラリとあげて、二人は同時に互いをとらえ合った。
「披露目の初日に俺を買いたいって客が何人かいるんだって。そんで一番高い値をつけたヤツにその権利が与えられるって話でよ……どんどん値が吊り上げられていってるらしいんだ。もうお父さん(店主)は大喜びでさ、この際は何人かいっぺんに相手にするのも変わった趣向でいいんじゃないかなんて言い出す始末……ッ、なんかもう……呆れちまって反論する気にすらならねえよ……」
小さな舌打ちと共に漏れ出した蒼白な苦笑いが、何も訊かずとも今の彼の心情を物語っているようで、遼二はどうしょうもない気持ちにさせられてしまった。
できることなら逃がしてやりたい。このまま彼の手を取って、此処から出て行ってしまえばいいと、そんな考えが瞬時に脳裏を巡った。
だが実のところ、そう簡単なものではないことは当に承知だ。今更ながらに無力な自分たちが歯がゆくて堪らなかった。
「なあ紫月……無理かも知れねえけど店を辞めさせてもらうことはできねえのか?」
そんなことは到底まかり通ることではないと分かっていても、そう訊かずにはいられなかった。
その言葉に紫月は切なそうに笑い、そしてまた膝を抱え込むようにうつむくだけだ。訊いてしまってから、より辛い思いをぶつけてしまったようで、遼二はひどく後悔し、どうにもならない壁の大きさを思い知らされるだけだった。
「だったら……俺も一緒に頼んでやるからお館様(店主)の所に話に行ってみねえか? 店を辞めたいって正直にそう言うんだ」
「……ッんなの無理に決まってる……俺、ガキの頃に親に売られて此処に来たんだ。もう両親の顔も覚えてねえし、誰もはっきりとそう言ったわけじゃねえけど……何となく分かってた。此処のお父さん(店主)は将来の俺の稼ぎを見込んで育てたわけだし、今更辞めてえなんて言ったら殺されちまうよ……」
そうだ。そんなことは言われなくたって自分にも分かっている。だが他にどうすればいいというのだ。
歯がゆさを持て余しながら、考え付くことは唯ひとつの結論だけだ。
「なら……ここから出ていかねえ……?」
「え――?」
「俺も一緒に行くから……二人で此処から逃げねえか?」
その言葉に、紫月は抱え込んでいた頭をあげて、驚いたように遼二を見つめた。
「それしかねえだろ? 所詮ガキの俺たちにできることなんて……それくらいしか……」
もしも自分がもっと大人で力もあったなら、紫月に課せられた借金を全部払って見受けして、彼を解放してやることもできるのだろう。だがそんなことは夢にも等しい。庭師としてでさえ親方の後を継いだばかりの未熟な自分に、できることなど微塵もないのだ。それでも紫月を救いたい気持ちはとめどない。遼二には、とにかく目の前の現実から身を隠すことしか方法が思いつかなかった。
「逃げよう紫月……! 俺と一緒に此処を出るんだ。できるだけ遠くに逃げて、そしたら仕事を探して俺……っ、その後のことは何とか考えるから……!」
必死の形相でそう言う遼二を、紫月は驚いたような表情で見つめた。
「なん……で? ど……して……? そこまで俺なんかの為に」
「どうしてって……そんなの……」
分からない――
でもどうしてもお前に辛い思いをさせたくはないんだ。
どこの誰とも分からない、色目当ての客にお前がどうされるのかと、それを想像しただけで気持ちが焼け焦げるようでどうしょうもなくなるのだ。
ちゅうちょしている時間など無い。震える脚を一歩前に踏み出して、今すぐ此処から出て行くんだ――!
遼二は自分に言い聞かせるように拳を握り締めては、決意のある目で真っ直ぐに紫月を見つめた。
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