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◇ 荒天 ◇ 弐
その、嘘偽りのなく曇りのない眼に、紫月の方は身体中が熱く火照るのを感じていた。
生真面目なこの男にこんな大それた決意までさせて、自分はいったいどうしたいというのだろう。少し冷静になって考えてみれば、単なる我がままから出た不安で、彼を掻き回して惑わせているだけじゃないか。紫月はそう思うと、いたたまれない気持ちになって、自分を恥じずにはいられなかった。
一緒に逃げて、もしもそれが店側にバレでもしたら、それこそとんでもないことになるのは目に見えている。重い罰などという言葉では到底足りないような過酷な仕打ちが待っているに違いないこともしかりだ。
そんな思いを噛み締めながら、紫月は薄く微笑った。
「なあ遼二よぉ、あと何年かして……俺が立派に一人前の店子になったとしてさ? お父さんに育ててもらった恩とか、全部返せるくらいの立場になったとしたらさ……そん時もお前、同じようにそう言ってくれんのかな……?」
「――?」
「ちゃんと独り立ちできるようになって、堂々と店を辞めたいって言えるくらいになれた時、今みてえに『一緒に此処から出て行こう』って言ってくれる?」
そうだ。コソコソと逃げ惑うのではなく、一人前の大人としてすべてに責任が持てるようになった時に、誰に臆することのなく堂々と此処から旅立っていけるのなら――
店子として客を取り、幾多の数知れぬ誰かと情事を重ね、巡りくる夜に心が砕けてしまいそうになったとしても、変わらずにお前は今と同じ言葉を俺にかけてくれるだろうか。
共に此処を出て、一緒に行こうと言ってくれるだろうか。
今みたいな真剣な目で、俺だけを見つめてくれるだろうか。
だとしたら俺はどんな過酷な思いにも堪えてみせる。
いつか本当の意味ですべてから解放されるその日を支えに、精一杯生きていける気がする。お前がずっと傍にいてくれるなら――
この気持ちはいったい何だろう?
ただ、心を許せる友というだけじゃない。
その存在を思うだけで、
その姿を目にするだけで、
その少し低めのやさしい声を聞くだけで、
心が高鳴り、締め付けられ、甘く、苦く、うずくようなこの気持ちはきっと、恋――なのだろうか。
これを人は恋と呼ぶのだろうか。
客をとるようになっても、決して特定の誰かに恋をしてはいけないと、再三言われてきたことだ。
店子の先輩でもある兄さま方が、口酸っぱくそうこぼす愚痴を幾度聞かされたことか知れない。そのたびに『俺にはきっと関係のないことだ』と笑い流してきたことを思い出す。
そうだ、客になる誰かに真剣な想いを抱くことなど想像さえつかなかった。色を売るということ自体も漠然としかとらえていなかったあの頃の自分には、それで当然だっただろう。
だが今なら分かる。兄さま方が溜息混じりにつぶやいていたあの忠告は、きっとこんな想いに悩む苦しさの証だったのだろう。
いつの間にか、ほのかな友情が甘苦しい愛情へと変わっていた。
何ものにも代えられない大切な、唯一人の存在としてこの男を意識するようになったのはいつの頃からだろうか。
何の曇りもなく、不安もなく堂々と、こいつと共に生きていける日がくるのなら、何もいらない――!
紫月は抱えていた膝から手を離し、顔をあげて真っ直ぐに遼二を見つめた。
「ごめん。俺、なんか情けねえこと言っちまって……すげえ無粋だよな。一緒に逃げようだなんて、お前にそんなことまで言わせちまって、同じ男なのにホント情けないって思うよ。でもお陰で決心がついたぜ?」
「紫月……?」
「ん、俺……がんばっていけそうな気がしてきた。ちゃんとてめえのするべきことをがんばってさ、一丁前に稼げるようんなったら……そン時こそお前と一緒に此処から出て行きてえなって。ま、その頃にはお前もそんな気ィ、起きなくなってるかも知れねえけどー」
クスクスと笑いながら、わざと悪戯そうにそう言う紫月の肩が震えていた。
儚い夢と希望を胸に、これからの、気の遠くなるような日々をなんとか生き抜こうとする決意と諦めの入り混じったような感情が堪らなかった。
無意識に遼二は手を伸ばし、気付けば華奢な肩を抱き包んでいた。
「……馬鹿野郎……ッ、ンなことっ、俺は……ッ!」
思いが交差し、とめどなく、言葉になどならなかった。
無力な自分が歯がゆくて悔しくて、大人の世界の壁がこんなにも高くて分厚いことが絶望となって我が身を押しつぶすようだ。
紫月をしっかりと腕の中に抱き包みながら、ふと、頬に一筋の涙がこぼれて伝った。
やるせない思いを、『涙』などという形でしか表しきれないちっぽけな自分も、情けなくてならなかった。
「俺なんかっ、何もできねえ……ッ! お前を救ってやることも助けてやることも逃がしてやることさえ、何も……ッ」
しぼり出すように耳元で囁かれる声が涙色にくぐもって、遼二の悲痛な叫びがドクドクと脈に乗り、伝わってきた。
これほどまでに自分を思ってくれるその気持ちに、感激ともつかない熱い想いがあふれ出す。それと共に、打ち破ることのできない現実が、大きく高い壁となって自分たちに圧し掛かってくるような切なさに、涙がこみあげた。
自らを抱き包む遼二の背中に腕を回し、すべてをゆだねるように抱きつきながら紫月は言った。
「なあ遼二……お前に頼みがあるんだ……」
その言葉に遼二は顔を上げ、互いの額と額とを擦り合わせるようにして彼を見つめた。
「俺、自由になれる日までがんばるよ。店子としてちゃんと立派に勤めあげてみせる……だから……だからさ、俺の初めての……オトコになってくんない……?」
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