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◇ 荒天 ◇ 四
決して超えてはならない一線という言葉を聞いたことがある。
堪え難き苦渋に身も心も翻弄されながら、流れゆく時に身を任せ、晴れてすべてから解放されるのを待つのが賢い大人の選択だというのなら、俺たちはそれを望まない。
一時の激情に流された愚かな生き方だと憐れまれても蔑まれても構わない。
永き苦悩の末に、ささやかな自由を手に入れられるのだとしても、俺たちはそれを待ってなどいられない。
例えこの身が滅びてしまうと分かっていても、互いのぬくもりを手放すことなど出来得はしない。
それが若い二人が選んでとった道だった。
求め合い、貪り合い、そうすることでより一層激しく燃えあがる気持ちが自らをもっと苦しめることになることなど、微塵の想像もつかないままに、ただただ目の前の衝動に身をゆだねた。
一夜を共にし、離れ難い辛さに押しつぶされそうになっては幾度も幾度も求め合い、秋のやわらかな陽が沈む頃になってようやくと現実感が互いを襲い――
一昼夜もの間、遊郭に戻らないことで、逆に店主らに疑われることを気に病んだ紫月が、後ろ髪を引かれる思いで帰って行く姿を見送る遼二の気持ちもまた、堪らない焦燥感でいっぱいになっていた。
急激に襲い来る現実が酷な思いに拍車をかける。
『月が高くなる頃に、こっそり抜け出してまたここへ来るから――』
はにかんだようにそう言った紫月の笑顔がとめどなく脳裏に浮かんでは、ハラハラと気持ちが急いて何事も手につかなかった。
夕刻に別れてから月が天心に昇るまでの僅かな時間が、永遠にも思える気がしていた。
店子として立派にやっていく決心をし、自らに身を委ねた紫月の横顔、
いつか自由を手に入れられた時に一緒に此処から出て行ってくれるかと訊いてくる不安げな面持ち、
ゴツゴツとした骨っぽい感覚の痩せた背中、
そのくせ男のものとは思えないようなきめ細やかな白い肌、
熱い吐息、
遠慮がちな嬌声……
欲情――
つい先刻まで手中にしていたそれらすべてが次から次へと浮かんでは気持ちを掻き乱す。
やはり今すぐにでも、此処から出て行った方が賢明なのではないか――?
自由を手に入れられるその日まで待ってなどいられない。
たった数時間が千秋にも思える中で、遼二は逸る心を持て余しては、ウロウロと手持無沙汰に小屋の中を行ったり来たりと、落ち着かない思いで過ごした。
ふと、格子から外を覗けば、隣りの遊郭との間に隔てられた高い竹垣の隙間から、色めいた灯りがちらほらと垣間見えた。
あの灯りの中で紫月は今、何を思い、どう過ごしているのだろう。
いつものように先輩の店子たちの世話をしているのか、それとも自室にいるのか、あるいは店主の下で披露目の日の為の段取りなどを相談させられているのか、ありとあらゆる想像が浮かんでは消え、不安を掻き立てる。
早く、
早く、
早く戻ってこい紫月――!
頭上を見上げれば、小さくなった月が煌々と輝きを増している。
あと少し、ほんの少しあの月が西へと動いたら、きっと紫月はやって来る。
いつものように息を弾ませて、少し早足でパタパタと着物の裾をひるがえしながら走って来るだろう。
ああ、早く会いたい。
会って顔を見て、安心したい。
そうしたら二人で此処を出ようと伝えるんだ。今度こそ、もう迷わずに、すぐにでも此処を出て運命を共にしよう。身支度などどうだっていい、後のことなど考えるな!
着のみ着のまま、お前が一緒なら他には何もいらないのだから――
祈るような思いで遊郭から繋がる一筋の道を見つめていた遼二の視界に、微かな灯りが近づいてくるのが飛び込んできた。
遠く近く、時折上下に揺れながらこちらへと向かってくる行燈の光にすべての思いがあふれ出す。
いてもたってもいられずに、遼二は小屋を飛び出した。
その光の先に愛しい者の温もりとは真逆の、辛辣な運命が迫っているなどとは夢にも思わないままで――
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