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第11話 山田オッサン編【10】

「ねぇグレーとネイビー、どっちがいいかなぁ?」  真顔で悩む妻の顔を眺めていた田中は、もう一度同じことを訊かれて我に返った。  どうやら彼女が1時間近く費やしてきたベビーカー選びが、ようやく色の選択まで辿り着いたらしい。 「あぁ、ネイビーのほうがいいんじゃねぇか? グレーもシックでいいけど、汚れが目立つしな」 「そうだよねぇ。じゃあやっぱりこっちにしようっと」  レインカバーも買っといたほうがいいかなぁ……すみやかに次の煩悶に移る妻の声が、また少し遠くなる。  休日のベビーザらスは若い夫婦や小さな子供たちでごった返していたが、その喧騒は夢の中の出来事みたいに現実味を伴わない。  人ゴミの中に無意識に知った顔を探す田中の頭には、先日耳にしたばかりの話がずっと貼りついたままだった。  月曜の朝。  はじまりは、喫煙ブースに山田を探しにきた新人・本田の爆弾発言だ──そういえば、山田さんて結婚してるんですか?  山田はその場にいなかった。  居合わせた3人のうち、田中と佐藤が「はぁ?」とハモった。 「してねぇよ」 「アイツが所帯を持てるようなヤツに見えるか?」 「ですよねぇ」  と答えた本田に、きっと他意はない。 「昨日、府中のベビーザらスで小さい男の子を抱っこして歩いてる山田さん見かけて、女のひとと3人連れだったんでアレ? って思ったんですけど」  でも、ですよねぇ……と本田が繰り返して首を捻ったあと、しばし静寂が訪れた。 「人違いじゃねぇのか」  まず佐藤が言った。何の感情もこもらない声だった。  次に田中が言った。 「山田と府中も結びつかねぇし」 「本田はそっち方面に住んでんだっけ?」 「いえ、姉夫婦が住んでるんで遊びに行って、甥っ子のモノを買いに行ったんです、ベビーザらス」  それまで無言だった鈴木が口を開いた。 「山田さんが抱っこしてたのって、何歳くらいの子?」 「あ、えーと、甥っ子と同じような感じだったんで、2歳くらいじゃないかなぁって」 「一緒にいた女って、どんなひと?」 「見た感じ僕よりちょっと上くらいの、すっごい美人でした」 「すっごい美人」 「そう、すっ、ごい、美人です」  本田が力の限り強調した。 「田中の嫁さんとどっちが上だ?」 「それカンケーねぇだろ佐藤」 「いや目安として」 「田中さん……あぁすみません」  乙ゲー王子様キャラのイケメンは、心から申し訳なさげな目を田中に向けた。  その愚直さはしかし、この際どうでも良かったし、そのツラで見つめられたのがオンナだったらひとたまりもなかろうという思いも、どうでも良かった。 「とにかく、そこらの美女じゃねぇってことか」 「えぇそれはもう。しかも山田さんとあんまり変わんないくらい身長あって、シュッとしてて、可愛い系じゃなくてキレイ系の、とにかくすっごい美女でした」  王子が真剣な目で熱く繰り返した。 「ますます人違いとしか思えねぇな」 「アイツの好みはロリ顔の巨乳だろ?」 「あのさ本田くん、それについて山田さん本人に訊いてないよね?」 「あ、ハイ、まだ今日会ってないんで」 「下手に触れないほうがいいかもしんないよ」 「え……そうなんですか?」 「俺たちに話したことも黙ってたほうがいいと思う」  どうも山田に何かしらの神秘を感じてるフシのある若い後輩は、神妙なツラでわかりましたと頷くと、ハッとしたように山田探しの旅を再開すべく去っていった。  王子様の後ろ姿を見送ってから、田中と佐藤は鈴木を見た。  佐藤が言った。 「鈴木お前、何か知ってんのか」 「いえ別に、知ってるってほどのことじゃないっすよ」  田中も言った。 「何でもいいから言ってみろ」 「去年だか一昨年だか、山田さんと飲んで帰ったときに、何故か山田さんの定期入れが俺のバッグに入ってたことがあったんスよね」 「うん、で?」 「俺も酔ってたんで、ついつい魔が差して中を見ちゃったんです」 「定期入れの中をか」 「お前は酔ってなくても見るんじゃねぇのか鈴木」 「俺をそんな人間だと思ってんですか?」  佐藤も田中も答えなかった。代わりに、で? と促した。 「中のカード入れに写真が入ってました」  すっごい美人が赤ちゃん抱っこしてる写真。  言って煙を吐いた鈴木を、田中と佐藤はしばらく無言で眺めた。 「去年か一昨年って言ったな?」 「えぇ、一昨年かな」 「いまの今まで、それについて山田に何も訊かなかったのか?」 「えぇ、だって定期入れの中を探ったことがバレちゃいますし」 「なんで俺たちにも黙ってた?」 「言う必要あります?」 「──」  平然と応じた鈴木に、佐藤が殺意のようなモノを帯びるのを感じた。  自分もそう見えただろうか。田中は思った。 「……とにかくだ。それが同じ2人だとすると、子供の年齢的には辻褄が合う」 「でもアイツ、ちょっとでもそんな気配あったか?」 「ねぇな」  佐藤の即答。  隠すのは──と、鈴木。上手いですからね、山田さん。すごく。  田中も佐藤もそれには答えなかったが、同感だった。きっと佐藤もそうだ。  しかしだからといって、そんなことあり得るだろうか? あの山田に隠し子? まさか。  まさかそんな。  もう10年以上、日常的につるんでる自分たちがその変化に気づかないなんてことがあるだろうか? そんなこと……  一昨年といえば田中はユリアと付き合いはじめた年で、たしかに何かと気が散っていたかもしれない。  が、その頃まだ山田と同居していた佐藤が嗅ぎ取れないはずがない。あの佐藤が。 「──」  あの朝以降の佐藤の、妙な静けさ。  何を考えてるのか、結局週末までその件には二度と触れなかった。だから田中も黙っていたが、2人とも自然と山田を避ける形となっていた。  会えば、いつもどおりバカ話もする。  でも胸倉を掴んで揺さぶって問い質したい衝動に駆られるから、仕事が山積みのフリをしてなるべく顔を合わせないようにした。  だけど正直、仕事どころじゃない。  だから田中は妻に提案した。  週末は天気が良さそうだから、クルマを借りて奥多摩のほうにでもドライブに行かないかと。  彼女が一緒にベビーカーを選びたがってるのを知っていたから、それも途中で買って積んで帰ろうと。  別に、ここに来れば何かを確認できると思ったわけじゃない。たとえ本田が見たのが山田本人だったとしても、毎週末のように現れたりはしないだろう。  しきりに品選びを相談してくるユリアの声を聞きながら、通路の向こうに見える家族連れを見るともなしに目で追った。  肩車されてはしゃいでいる、2歳児くらいの男の子。父親が山田に似たタイプだ。夫と腕を組んで楽しげに歩く母親は、同じくらいの身長でシュッとしていて、とんでもない美人で──  田中はもう一度、子供を肩に担ぐ父親を見た。  妻の声が遠ざかり、すべての音が聞こえなくなった。 「──」  山田。

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