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第12話 山田オッサン編【11】
小島はその夜、珍しい人物と会うことになっていた。
地下への階段を降り、重い扉を開けると、仄暗いバーカウンターから挨拶を寄越したのは以前の職場の先輩だった。
「よぉ、久しぶりだな」
「お元気ですか? 田中さん」
親しかったわけじゃない。むしろ疎まれていたはずだ。ある1人の人物のために。
それでも互いに連絡先を知ってる理由も、同じくある1人の人物が根底にある。が、それが使われる日が来るとは思ってなかったから、連絡を受けたときは少々面喰らった。
小島は田中の手元のグラスを見て、同じの、とカウンターの中にオーダーした。ビールで乾杯し合うような仲ですらない。
「結婚式以来ですね。どうですか? 新婚生活は」
去年、この先輩は職場結婚した。
自分を式に招きたくはなかっただろうが、小島のときに招ばれたことを踏まえ、新婦に言われて渋々声をかけてきた。
もちろん小島は喜んで参列した。
祝うためじゃなく、職場を離れて滅多に会えなくなってしまった別の先輩の顔を見るために。
「我慢できてる」
小島の問いに田中が短く答えた。
「おかしいですね」
小島は笑った。
「俺と違って、自分の意思で結婚したはずなのに」
「つい最近までは、そう思い込むことに成功してたけどな」
言いながら、田中は煙草を咥えて火を点けた。加熱式などではない、もともと吸っていた紙巻の銘柄だ。
カウンターの上の見慣れたパッケージをちょっと眺めてから、小島は田中の横顔を見た。
「お子さんが産まれるから禁煙してるって聞いたんですが」
「山田からか」
「えぇ、まぁ」
「お前ら、よく会ってんの?」
「──」
小島は即答せず、隣席の表情を窺った。
「別にそれ自体をどうこう言おうとは思ってねぇよ、今日はな」
「山田さんに何かあったんですね?」
訊き返すと今度は田中が沈黙で答え、ゆっくり煙を二度吐いてからスマホを出して寄越した。
「……なんの冗談です? これ」
画面のなかでは、小さな子供を抱えた山田が屈託のない笑顔を見せていた。傍らにはスラリとした美女。いかにも隠し撮りのような風情で、場所は育児用品売り場に見える。
田中の指が画像を送った。可能な限りズームした、山田と女のツーショット。続いて幼児のアップ。
何かを見上げるあどけない表情を、小島はじっと見つめた。
「似てますね、山田さんに」
「子供の顔はわからねぇからな」
「いえ、似てますよ」
似てます、と口の中でもう一度呟く。
「田中さんが撮ったんですか?」
「あぁ」
「いつ探偵事務所に転職を?」
「もっと訊くべきことはねぇのか」
「これは一体何なんです」
「見ての通りだ」
「俺の知らない間に山田さんが結婚して、子供まで生まれてると?」
「もしそうなら、お前だけじゃなく俺たちも知らない間に、だ」
「もちろん、佐藤さんも知らないんですよね?」
特定の名前に田中はこれといった反応も見せず、灰皿に灰を落として淡々と経緯を語りはじめた。
山田が面倒を見ている新人の目撃談。
鈴木が2年も前から知っていたという、山田が定期入れに忍ばせていた写真。
そしてこの、田中が盗撮してきたベビーザらスの一件。
「山田さん本人には訊いてないんですか」
「訊いてたらお前に連絡してない」
「なるほど。で、俺に何をしろと?」
「別に。俺が何も言わなくても、お前は勝手に何らかの手を打つんだろ」
なるほど、と小島は繰り返した。
事の真相を明らかにするか、もう一歩踏み込んでこの母子と別れさせるか。
小島ならカネにものを言わせてやりかねない、田中はそう考えてるに違いない。たしかにそうだ。
自分の、田中の、ついでにほかの誰かの、山田に対する執着について小島はちょっと思いを馳せた。
山田以外で小島の連絡先を知っているのは、この田中だけだ。
招かれざる客として出席した結婚式当日、同じ境遇となった……と少なくとも小島は認識している新郎と、たまたま2人になる瞬間があった。
その場にいたのは1分足らずだったが、ごく短い言葉と互いの目線、ついでに連絡先を交わした。まるで何かの保険のように。
「まぁでも、何らかの理由で知り合いの奥さんと子供の買い物に付き合ってるだけ、という可能性もなくはないですよね? もしくは、じつはご主人も一緒にいたけどちょうどトイレに行ってた、とか」
「たまたまこの3人で育児用品売り場をウロついてるところを、2週も続けて目撃されたってのか?」
「そもそも、2週連続で行くところなんですか? そういう店って」
「さぁな。タイミングの問題じゃねぇのか」
田中が言って煙草を消した。
小島はグラスの中身を舐めた。氷が溶けかけてる。
「ちなみに俺に連絡してきたのは、田中さんの個人的な判断ですか? それともみなさんの総意?」
「お前に連絡したことは他のヤツらにはまだ言ってねぇよ。ついでに言うと、そのベビーザらスの件もな」
「え、ここで目撃したことを言ってないんですか?」
「あぁ。誰に言っても、誰にも言わなくても結果は同じような気がして、何となく」
「それって田中さん。この女性の正体に心当たりがあって、誰に言うべきかわからない──という話ではないんですよね?」
確かめるように小島が尋ねると、田中はこちらの目の色を数秒窺った。
「何が言いてぇんだ?」
小島は手にしていたグラスをコースターに戻し、それとなく周囲を見て慎重に声を抑えた。
「田中さん。いまの首相の首席秘書官……政務担当秘書官が誰だか知ってますか?」
「は? 知らねぇよ」
突然何を、という顔を向けてくる。
「それってアレだろ? 総理大臣を陰で操って政界を牛耳るポストみてぇな」
田中の認識は若干の偏見を交えつつ、ざっくりと要約されていた。
「歴代の首席秘書官が全員そうとは限らないかもしれませんが。少なくとも、現在の熊埜御堂 兼嗣 はそういう人物ですね」
「やたら画数が多そうな名前だってことはわかった。それが?」
「経産省出身の彼は、親類縁者にも財界の重鎮が数名。長男も経産省のエリート官僚で、たしか田中さんたちと同年代のはずです」
「その息子は超サラブレッドってわけか」
「えぇ。で、ウチも企業の端くれなんで、その筋の情報が多少舞い込んできたりするんですよ。時々、風の噂としてね」
田中は頷きもせず、無言で先を促す。
「この件は、むしろ俺では手が出せないかもしれません」
カウンターの木目。仄かな間接照明。灰皿から立ち昇る紫煙。
漂ってくる煙は山田と同じ匂いだと頭の隅で感じながら、小島は田中に顔を寄せた。不本意にも。
「俺の記憶と顔認識が定かなら、その彼女は10年以上前に失踪した熊埜御堂氏の娘ですよ」
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