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第20話 山田オッサン編【18】
野島が青年会議所の寄り合いから戻ったとき、ちょうど2tショートトラックが走り去るところだった。
それを見て、そういえば今日はアパートの1階の入居日だと思い出す。
なんと2階の住人・山田の妹だという新しい入居者は、しかし山田という姓ではないどころかやたら大仰なフルネームで、幼い男の子と2人住まいらしい。
離別か死別をして旧姓に戻してないということなのだろうが、家賃の支払いが滞ったりしないかしら? と妻が渋い顔をした理由は、家賃云々ではなく山田の妹がとんでもない美人だったからに違いない。
何を心配するっていうのか。ハナから比較にならないというのに。
もとい、自分の夫が出来心を起こしたりするとでも?
誓って言えるが、それはない。彼女は美しすぎて逆に食指が動かないとでもいうか。
自分はもっとこう、平凡で身近に感じられて、それでいて正体不明な魅力がどこからともなく滲み出てるような……
「──」
何かが頭を掠めてハッとした。
ともかく彼女については山田の母親が保証人になってるし、それに2歳の男の子ならウチの娘とひとつ違いだからいい遊び相手になりそうだし。
何より野島は、2階の山田を無条件で信用したい己を知っていた。
何故なのかは自分でもわからない。
が、当初から感じていた妙な安心感に加え、最近では山田の顔を見ると、いや見なくとも、彼の部屋で見た不可解な白昼夢が蘇って……あのとき幻のなかで触れることの叶わなかった唇が──唇が目の前に、
「野島さん?」
目の前に山田の顔があって飛び上がるほど驚いた。
「や山田さんっ」
「まーたボケっとしてー、野島さん。何回呼ばせんの?」
「すみません、あの、ちょっと今、寄り合いの帰りで……」
疲れてるのかなハハハと続けようとした野島は、ふいに数センチ下から山田の目が近づいてくるのを見て固まった。
なんだ!?
なんだ何だ!?
こんな、妻に目撃されないとも限らない自宅の敷地の庭先で!
今度こそ唇が──触れて、
「や、山田さ……」
しまうじゃ──ないか!?
「あ、やっぱり」
つい瞼を閉じる寸前、山田が言った。
「酒くさいっすよ野島さん」
「あ、え?」
「寄り合いで呑んだくれてきたから、いつもより余計にボーッとしてるんスね?」
人の悪い笑顔を間近に見ながら、野島は狼狽えながらもひどくもどかしい思いに駆られていた。
あと10センチ、いや10センチもない。
ほんの少し動けば、そこに辿り着けるというのに……!
山田が襟首を掴まれて引き離された。
「お前は何やってんだ大家さんに」
見ると山田の背後に見覚えのある男が立っていた。2階の引っ越しのときにも会ったと思うし、時折見かける顔のひとつだ。
気づけば、妻に見られるどころか引っ越しの手伝いで来ている山田の知り合いたち、それに入居者本人と幼い息子がこちらを眺めていた。
いや、アイツに挨拶させようと思ってよー。山田が男に言っているのを意識の隅で聞き、野島は内心冷や汗をかいた。
あ──危なかった……。
しおー、しおー、間延びした声で山田が妹を呼ぶ。
そうだ、彼女の名前は紫櫻だ。熊埜御堂紫櫻、冗談みたいに画数の多いフルネーム。
子供の手を引いて近づいて来た彼女と挨拶を交わしている途中、無言で手を振りほどいた息子がもといた場所へと駆け出し、それを見た山田が追いかけていった。
母である紫櫻も慌てて後に続いたが、息子は向こうで待っていた山田の知人の1人に抱き上げられ一件落着。どうやら、その人物に特に懐いてる様子だった。
野島のそばには、山田の襟首を掴んでいた男だけが残った。
「どうも、山田がいつもお世話になってます」
疲れてるのか、少し不機嫌そうな表情で彼は言った。
「あ、はい、こちらこそお世話になってます」
「さっき奥さんと娘さんにも会いましたけど、山田の甥っ子と同じくらいなんですね」
不機嫌そうなわりに世間話をする余裕はあるのか、意外にも男は続けた。
「そうなんですよ、うちがひとつ上で。子供同士、仲良くやってくれるといいんですけど」
「母親同士も同年代みたいですし、今後とも彼の妹をよろしくお願いしますと、奥さんにくれぐれもお伝えください」
どことなく威圧的な物言いに野島は戸惑いを覚えた。さっきから「奥さん」という単語が強調されて聞こえるのは気のせいか。
まさか、妻への後ろめたさを見抜かれたわけじゃないよな?
「あ……えっと、山田さんは男前なお友達が多いですねぇ」
空気を変えようと、野島はぎこちなく舵を切った。
「は? そうですか?」
「今日お手伝いにいらしてる皆さんも、揃ってそうですし」
「そりゃどうも」
「ほかにも時々見かけるお友達で、同じように背が高くてすごい男前の方がいますよ。たまに泊まったりするのか、朝一緒に出てくるところを何度か見ましたけど……」
言いながらふと目を上げた野島は、そこに険しい横顔を見つけて口を閉じた。
視線を追うと、その先には山田がいた──と思ったのは単なる憶測かもしれない。そこには妹や甥っ子や他の友人らもいるからだ。
男がゆっくりとこちらに目を向けた。穏やかさとは程遠い色。
もしかして、マズイことを言ってしまったんだろうか……妻がよく口にする小言が耳を掠める。
あなたはそうやってね、アルコールが入ると余計なこと言うんだから気をつけなさいよ──
「もしかして、雑誌から切り抜いてきたモデルみたいなヤツですか?」
低く男が言った。
「あ、その、ご存知の方ですか? えぇ着てる服なんかも実際、雑誌からそのまま持ってきたような感じで……」
目の前の表情が一層険しく研ぎ澄まされる。
事情はさっぱりわからないが、空気を変えることには成功したようだ。
ただし悪いほうに。
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