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第35話 山田オッサン編【26】
今日は朝から土砂降りの雨だった。
外回りから戻った山田が喫煙ルームに直行する途中、コンビニコーヒーのカップを手にした田中と出くわした。
「よう、濡れたな」
「おー、こんな日のアポはキャンセルしたかったのによう、本田のヤツがうるせぇから」
「雨でキャンセルって、南の島の歌じゃねぇんだからよ。で、本田はどうしたんだ」
「下のコンビニに寄るっつーから置いてきた。それより田中パパ、調子はどーよ」
「超眠ィ。お前は喫煙所?」
「おう」
「俺も行く」
「やめたんだろ?」
「まぁな、吸わねぇけど」
連れ立って向かった喫煙ルームは無人だった。
山田は靴下まで濡れたと文句を垂れながら煙草に火を点け、田中はコーヒーを飲んで溜息を吐いた。
「あぁ眠りてぇ」
「大変そうだな」
「毎晩、夜中に何回も起こされてよ」
それから乳児との格闘の日々を語るのかと山田は少し待ったが、田中はそれ以上何も言わなかった。
「聞くぜ?」
「何を?」
「だから、子育て奮闘記?」
「別にいいよ」
田中は笑った。疲れたツラのなかに、しかしどこか穏やかな充足の色があるようにも見える。
「可愛いんだな」
「何だ?」
「子供」
言った山田を、田中は少し無言で眺めた。
それからコーヒーをひとくち飲み、まぁなと短く返す。
山田たちは、まだ実物の田中一郎に会ってない。てんてこ舞いのところに野郎がわらわら押しかけるのも迷惑だろうしと、ある程度落ち着いた頃に見に行くことにしていた。
だから写真だけでご尊顔を拝したのみだが、産まれて間もない乳児は可愛いだの可愛くないだの、誰に似てるだの似てないだのと言える段階ではなかった。
「まぁ自分の子だったらそりゃ可愛いんだろうけど、お前らの子供だからイケメンになるだろうなぁ? お前んとこのヨメは息子を溺愛しそうなタイプだし、カノジョなんか連れてきたら間違いなく血飛沫飛びまくりの惨劇で家んなか地獄絵図だぜ、きっと」
「ユリアじゃなくて俺がキレるかもしんねぇよ?」
「え、マジで?」
「山田」
田中が言って、カップに据えていた目を上げた。
「何だよ」
「俺と寝たこと後悔してるか?」
沈黙。
ブースのガラスの壁の向こう、廊下に並ぶ窓から四角い灰色の世界が見える。止む気配のない土砂降りの雨。糸状の檻がつくり出す閉塞感が、静寂を増幅させているように感じられた。
山田がひとつ瞬きして、ゆっくり煙を吐いた。
「何、いきなり」
「あぁ……なんつーか、区切りとして聞いておきたくて。答えたくなかったら別に」
「別にしてねぇよ後悔」
遮って答えた山田の横顔を田中は見つめた。
そこにはどんな表情もない。何ひとつ窺わせない、山田特有のそのツラ。
その中にあるものを覗きたい、その目が見ているものを知りたいという欲求が、払っても払っても纏わりつく執着を生むのだろうか。それとも、そんなものは関係なく、山田というヤツそのものが何らかの磁場を孕んで引き寄せるのか。
昔から現在まで答えの出ない問いを、田中は改めて己の裡に投げかける。
が、これが最後だ。そんな疑問を抱え続けるのも、もう終わりにしなきゃならない。
「ひとつだけ教えてくれ」
「今もう、ひとつ教えたぜ?」
山田の横顔が笑う。
「後悔してないってのは、どうでもいいって意味か。それとも、お前にとって何か意味はあったのか」
床に目を投げて煙草を吸っていた山田は、やがて吸殻入れに捨てて顔を上げた。
「悪ィ、さっきのは嘘。後悔してる」
「──」
「お前に、こんなに引き摺らせることになるとは思ってなかった。だから後悔してる」
「山田、答えになってねぇ」
「けど、お前に残ってるのは出会い頭の事故みてぇな古傷だけで、ホントは痛みなんかとっくに消えてるはずだぜ?」
昔聞いた声が耳の奥に蘇る。
もう忘れちまえ、俺も忘れる──
ともすれば腹の底から溢れそうになる何かを力尽くで押さえつけて塞いだ、呪いのようなその言葉。
繰り返されなくてもわかってる。でも今、聞きたいのはそんなことじゃない。
「俺が訊いてるのはお前がどうなんだってことだろ? お前の中には何か、それが見えないぐらい小さなモンだとしても何かは残ったのか」
相変わらず何の感情も浮かばないニュートラルなツラで、山田は田中を見ている。
ただ、今は空洞への入口みたいな目じゃなく、田中の内側を静かに覗いてでもいるような眼差しだと感じた。
「田中、お前」
山田は言った。
「俺が誰かとどうにかなって、何とも思わねぇ人間だと思ってんのか?」
「山田……」
田中は咄嗟に山田の腕を掴んでいた。
引き寄せるようにして、唇で湿った髪に触れる。雨の匂いと、嗅ぎ慣れた煙草の匂い。
「悪い、そういうつもりで言ったんじゃねぇ」
「別に気にしてねぇよ」
「山田」
「今度は何だよ?」
「山田……」
「だから何だよ?」
「忘れろって言ってくれ。あのときみてぇに」
抑えた声が我ながら必死だと思い、田中は不意に笑いたくなった。
「バカだな、お前」
応じた山田も、少し笑い混じりだった。
上げた目がまっすぐ田中の目を捉え、腕を掴む手に指が触れた。
「俺との間にあったことなんかいちいち思い出すな。子供が可愛いんだろ? いま手の中にあるものを大事にしろよ」
そして言った。
「もう、忘れろ」
まるで泣く子を宥めるような声の色。
このひとことを、この先ずっと腹の裡に抱いていく。
山田は田中の身体をそっと押し遣り、すでに平素の表情に戻って笑った。
「せっかくここにいんだから最後の一服でも勧めてぇトコだけど、こないだの飲みんときでキッパリやめたんだよな?」
山田につられて、田中も笑った。
「最後の一服か。じゃあ、それだけもらっとくかな」
「え、吸うのかよ?」
訊き返した山田の唇に、田中の唇が重なった。
煙草ではないものを吸い、隙間を割って舌に触れ、絡めとってじっくり味わった唇は、最後は何かを吹っ切るように離れていった。
「お前な、それのどこが一服なんだよ」
「ちゃんと煙草の味がしたぜ?」
田中が言ったとき、入り口でドサッと音がして彼らはそちらに目を向けた。
本田がいた。
青ざめて立ち尽くす足元にビジネスバッグが落ちている。
こんなシーン、いつだかもあった気がするな──デジャヴを感じる2人の前で、乙ゲーの王子様は濡れた髪を頰に張り付かせたまま呆然と呟いた。
「あの……山田さんの煙草を」
「あ、そーだった」
山田は能天気な声を上げた。コンビニ行くついでに煙草を頼んどいたのを、すっかり忘れてた。
「あのな今のは、田中が嫁さんとケンカしたっつーから仲直りの練習させてただけだぜ? 別に俺ら、そーいうアレじゃねぇからな? 間違ってもテンパって言いふらしたりすんじゃねーよ? 特に鈴木と佐藤には。あ、何だったら本田、お前も練習付き合って……」
やれよ。
皆まで言い終わらないうちに脱兎の如く駆け出した本田の背中は、もう遠く小さかった。
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