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第41話 山田オッサン編【30-1】

 鳴り始める一瞬前に目覚ましを止める。  ベッドを降りて部屋を出たら、まず用を足して顔を洗い、髭を剃り、歯を磨いて着替えを済ませ、新聞を読みながら妻の用意した朝食を摂り、また歯を磨いて荷物と新聞を持って家を出る。  毎日同じルートで駅に向かい、同じ電車、同じ車両に揺られ、降りたら毎日同じルートで職場に向かい、仕事をこなし、昼には食堂で日替わりメニューを注文。その日の内容が何であれ構わない。  昼休みが終われば午後の仕事を片づけ、残業さえなければ毎日同じ時刻に職場を出て帰途に就く。  帰宅すれば着替えて妻の用意した夕食を摂り、報道か政治関連の番組を観ながら少しばかりの酒を舐め、入浴、就寝。  美しくて賢い妻、上辺を撫でるような会話、腹の探り合いの職場、変わり映えのしない毎日。  淀みなく流れているのに、沈澱し続ける何かが重なり、溜まって、少しずつ膿んでいく日常。  しかし、その日は。  昼になるのを待たず、食堂にも行かず、ロビーに降りて時間が来るのを待った。  正確には、時間ではなく人物を。  やがて彼が現れた。  十数年ぶりに目の当たりにする立ち姿。スーツを着ていること以外は、あの頃と何も変わらない。  自分を見るその目も、乾いた砂を握るような手応えのない表情も。 「久しぶりだね、山田くん」  作り笑いをしてみせたつもりだったが、うまくいかなかったと思う。  昼食は、職場から程近い和食料理屋の個室を押さえていた。他部署の知人に相談して勧められた店だ。誰と何のために会うのかは詮索されなかった。  いずれにしても、彼は出された食事に何ひとつ箸を付けることなく時間が過ぎていった。  が、それでも構わない。  極めてよそよそしい風情で正面に座る彼の姿に、ただひたすら、かつての記憶を重ねた。  手のひらに収まる手首の質感。  声、吐息、熱をもった肌の匂い。  濡れた睫毛の奥に潜む、無味乾燥な瞳の硬さ──  かつては、何もかも全てがこの手中にあった。      熊埜御堂啓輔が彼に初めて会ったのは高校3年生の初夏だった。  ある日、帰宅すると小学生の妹が見知らぬ少年と一緒にいた。  自分とそう変わらない年頃。  すぐにピンときた。  父が縁のある女性とその子供の面倒を見ると言い出したのは、つい数日前のことだ。  愛人の存在は随分前からチラついていたから今さら驚きはしなかったものの、子供までいるとは思ってなかったからさすがに面喰らった。しかも、自分と2歳しか違わないという。  どうやら母親のほうが身体を壊したとかで、この機に打ち明ける気になったらしい。  これまでは彼女が生活の支援を拒否してきたが、医療費が嵩むことなどを理由に父がゴリ押ししたという話だった。それが本当なのか、愛人が背に腹はかえられられなくなっただけなのか、真相はわからないし興味もない。  とにかく近々、その腹違いの弟を紹介するつもりだと父は言った。  好きにすればいい。どうせ異を唱えることなど許されないのだから。  絶対的存在である父のもと、兄妹は幼い頃から子供らしい遊びも与えられず、人生の選択の余地もなく、周囲の手で敷かれたレールを踏み外さぬよう育てられてきた。  父にただ付き従うのみだった母は、前年に他界していた。病死だった。  父と関わる女はみんな大病に罹る運命なんだろうか。そんな感想を抱いただけだ。そのときは。  しかし腹違いの弟の姿を目の当たりにした途端、自分の中で何かが音を立て、亀裂が生じるのを感じた。  初めて訪れる父親の本宅にも関わらず、緊張した様子もないニュートラルな面持ち。  そこに時折、笑みが浮かぶ。どこか気怠くもあり、それでいて屈託のない不思議な表情。何を言ってるのかは聞こえないが、妹はとても楽しそうで、彼女が声を上げて笑うのを初めて聞いた。  そんな弛緩した空気は、これまで過ごしてきた時間のどこにも存在しなかった。  折しも自分は大学受験の年。国内最高学府への入学を当然のように課され、合格率が日本一の中高一貫校で鎬を削り続けてきた。  そしていよいよ、その成果を上げろと否応なく迫られているこんな時期に。  ──何故、今こんなものを持ち込んでくる?  不自由で窮屈な人生を強いておいて、このタイミングで異物を投入して掻き乱す父の無神経が我慢ならないと感じた。  同じく父の息子でありながら、まるで別世界を生きてきた腹違いの弟。  血が半分繋がっているとは思いがたい、これといって特徴のない凡庸な顔立ち。父に似ているわけでもない。きっと母親似なのだろう。自分たち兄妹も揃って、亡くなった母の面差しを受け継いでいた。  いずれにしても父は、その愛人を外見で選んだわけではないようだ。では、それは一体何なのか。  見たこともない仕種で笑う妹の横顔。  その向こうで、こちらに気づいて上げた目の透明さに戦慄した。  父への忌ま忌ましさが矛先を変え、一気に噴き出した瞬間だった。

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