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第43話 山田オッサン編【30-3】#

 独りになった彼は益々表情を失くし、気怠く見返す瞳は硬い殻を纏い、もはや拒絶も反発も、受容も譲歩も、何ひとつ窺わせない石ころのような欠片となった。  それでも身体だけは、いくら抱いても渇くことがない。  熱を持ち、汗ばみ、湿った吐息を漏らして潤んだ睫毛を震わせる。押し入ればノドを反らして喘ぎ、背中に爪を立て、咥えたものを熱い粘膜で絡め取って擦り上げる。  決して他では手に入らない高揚、陶酔。その艶めかしさは一体、どこから溢れ来るのだろうか。  そうして彼の身体に溺れ、彼自身に溺れるうち、父の期待どおりのレールに乗り、卒業して入省を果たした。  その間には数人の女性とも関係を持ったが、いずれも彼とのセックスには程遠いものだった。  だからなのか、今度は新たな環境に慣れて落ち着きつつあっても、彼を手放す気持ちは一向に訪れなかった。  そんな最中だ、縁談の話が舞い込んできたのは。  相手は父と間接的な繋がりのある上司の娘で、選択の余地など無論ない。瞬く間に話は進み、ろくに会いもしないうちに周囲の思惑のみで婚約まで固まっていた。  敷かれた2本のレールが合流する。それだけのことだと思ってはいても、家庭を持つという不自由さを考えると平静ではいられない。  折しも、次の春には彼の卒業を控えた年だった。  決して万全のコンディションではあり得なかっただろうに、それでも内定をいくつかもらっていたのは、やはり彼の持つ何らかの魅力、見え隠れするポテンシャルによるものではなかろうか。  しかしそれらを悉く辞退させ、学生時代の同級生が籍を置く企業に強引に捩じ込んだのは、我ながら呆れるほどの執着だった。  もちろん自分だけの力では不可能だったが、父の名前を持ち出せば比較的容易に事は運んだ。  言いなりに結婚せざるを得ないのなら彼を目の届くところに置いておきたかったし、父の名を利用したのはせめてもの腹いせでもある。それに内定が出ていた数社より、規模的にも条件的にも上回っていた。  彼は、少なくとも表面上は唯々諾々と従った。抵抗したところでどうにもならないと思っていたんだろうが、真意はわからずじまいだ。  その頃にはもはや必要最低限の会話しかなく、特に彼のほうは2人でいるとき、ほとんど声を発しなかった。セックスという行為中以外では。  そうなると声を聴きたいがために、ますます身体を重ねる回数が増す。すると一層、彼は寡黙になる。  そんな悪循環をどうにもできずにいるうち、終わりは唐突にやってきた。      その夜、妹は友人宅に泊まりに行くことになっていた。父は前日から3日間、地方に出向いていて不在。  誰も帰るはずのない玄関で物音がしたとき、彼はベッドで上体を起こして煙草を吸っていた。  高校時代からの喫煙は知っていたが、匂いが付いては困るから部屋で吸わせることは滅多になかった。こんなふうに、明らかに無人となる日でない限り。  しかし学校から友人の家に直行したはずの妹が何か取りにでも戻ったのか、階段を上がる軽い足音が聞こえてきた。  気配を窺いながらシャツを羽織り、着衣を整える間、ベッドの彼は咥え煙草でぼんやりした目を宙に投げていた。ついさっき、彼の中で達したばかりだった。  その彼をそのまま置いて、妹を近づかせないために部屋を出た。  果たして予想どおり、妹が自室から現れた。何か荷物を手にしている。 「いたの?」  驚く風情もなく彼女は言った。  成長とともに母と瓜二つになりつつある立ち姿。  幼い頃から兄妹仲は決して良好とは言えず、彼といるときには自然な笑みを浮かべさえする顔は、いまは真っさらな無表情だった。 「泊まって来るんじゃなかったのか」 「忘れ物を取りに来ただけ」  抑揚のない声で答えて階段に向かいかけた妹が、ふと振り向いた。 「そういえば、お兄ちゃん来てるの?」  彼女がそう呼ぶのは腹違いの兄のことだ。 「なんでだ?」 「玄関にあった靴、見覚えがあるの」  舌打ちしたい気分だった。すっかり油断していた。  気のせいじゃないのか──適当に受け流そうとしたそのとき、廊下の奥で何かが割れる音が響いて心臓が凍りついた。  妹が音のしたほうに投げた目をこちらに戻すと同時に、今度は意味を成さない絶叫が聞こえてきた。  続いて、腹の底から引き絞るような叫び声。 「もう嫌だ、やってらんねぇ……!! 」  そして再度、もう嫌だ!! と繰り返し聞こえた直後、弾かれたように駆け出した妹が止める間もなくドアを開けていた。彼のいる部屋のドアを。  それからの静寂は、どのくらい続いただろうか。  無言で近づいていく気配にゆっくり振り向いた妹の、驚愕と嫌悪に満ちた表情。そんな顔もできるのか。場違いなほど冷静にそう思ったのを覚えている。  部屋の中ではクロゼットの扉の鏡が割れて飛散し、灰皿が転がっていた。  その手前で、こちらに背を向けて立つ彼は全裸のままだった。  項垂れた首筋、痩せた肩、骨張った肩胛骨。脊柱の微かな陰影から続く細い腰、小さな尻から伸びる、意外なほど形の綺麗な両脚のライン──  手の中に閉じ込め続けたそれら全てが、この瞬間から自分のものではなくなるのだと思い知った。      結局、彼は父の目の届く大手企業に押し込まれた。  当然ながら父の怒りは凄絶だったが、それでも政治的な理由で長男のしでかしたことを闇に葬り、縁談の筋書きを繰り上げ、早々に家庭を持たせて彼から遠ざけ、金輪際近寄ることを禁じた。  しかし、その彼が今、後部座席に座っている。  禁を破って呼び付けた先日の経緯もあるため、彼が信じたかどうかはわからないが、通りかかった銀座の路上で発見したのは偶然だ。 「余計なことをして悪かったけど、絡まれて困ってるように見えたから」  言ってみたが返事はない。  ルームミラー越しに、窓の外を眺める俯き加減の横顔が見える。  どこまで送る? と訊くと短い答えが返った。 「ここでいい」  長居は無用ということだろう。前方にはもう、有楽町駅のガードも見えている。  数寄屋橋の交差点を過ぎたところで路肩に停めるなり、遠巻きに眺めることしか許されない鳥はこちらに目もくれずに出ていった。  今はもう、カゴの中にいるのは自分であって彼じゃない。

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