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秘密〜駒編〜

それはあまりに突然のことで……。自分の中から、何かが飛び出していったような、そんな感覚、で、ございました。 こんなに早く解けるとは……。 先生のもとに、今すぐ駆け出したい。 私の中に、こんな熱がずっとずっとあったことを、今、すべて思い出しました。 この新年会が終わったら……いえ、新年会が終われば、若様は雨花様のもとに行かれることでしょう。若様の護衛を護群に引き継ぎ、明日の若様のお食事について、梓の丸と相談するよう賄い方に指示を出し、若様の先ほどの宣言による混乱はないかの確認をし……。 考えつくだけの用事を全て終わらせたあとだとしたら、先生のもとに、いつ行けるだろう。 今すぐ先生に伝えたい。私の”呪い”が解けたことを……。 その時、後ろから『失礼致します』と、懐かしい声が聞こえて参りました。 驚いて振り向くと、”先生”が笑っていらっしゃいました。 ドクンっと、激しく胸が高まって、その場で先生に縋りつきたい気持ちをようやく納めますと、先生は、私に手紙を差し出しました。 一礼して、大広間をあとになさった先生の背中に見とれていた私は、先生が見えなくなってから慌てて、先生にいただいた手紙を開いたのです。 そこには、何も書かれてはいませんでした。 何も書いていない、真っ白なただの紙……それは、5年ぶりにいただいた、先生から私への恋文……。 先生にも、私の呪いが解けたことがわかったのですね? 今すぐ先生を追いかけたい。ですが私には、大事な仕事が……。 そう思っておりますと、私のもとに御台様がいらっしゃいました。 「駒」 「はい」 「解けたんだね?」 御台様にそう聞かれて、涙がこみ上げて参りました。御台様は、私にかけられていた”呪い”を、よくご存知でいらっしゃいます。 「はい」 そう返事をするのが、やっとでした。 「行っておいで。あとのことは、櫂にやらせる。櫂もよろこんでやってくれるよ。さあ、早く」 「御台様……ありがとうございます!」 私は大広間を飛び出しました。 きっと先生は、あの部屋で私を待っていらっしゃる。 五年前、私が呪いを受けたあの日までのおよそ三年間、先生にご指導いただいた、地下の、あの部屋に……。 私は、逸る気持ちのまま、本丸の端にある地下の小部屋に急ぎました。 ✳✳✳✳✳✳✳ 先生との出会いは、若様が10歳の誕生日を迎えた日のことでした。 私は19歳になったばかりでしたが、すでに若様に仕えて、7年経っておりました。 若様は、小さい頃から成長の早いお子様で、10歳を迎えようとするこの頃にはもう、身長は150センチを越えていらっしゃいました。10歳の平均身長は、140センチほどだったかと記憶しております。 まだ声変わりなどはなさっていらっしゃらず、線の細い少年でいらっしゃいましたが、身長の伸びを考えるに、いつ第二次性徴が現れ始めてもおかしくない……そのような頃でございました。 鎧鏡家の当主様には、奥方様を心身ともに満たさねばならないという、掟にも似た思想がございます。 当主様と奥方様の間にいらっしゃる御子様は、お二人の閨の儀にて、御魂の交わりが完全に行われなければ降りていらっしゃらないと言われております。 私の立場で、完全なる御魂の交わりがどのようなことなのかはわかりかねますが、そうなるためには、夜伽の技術が必要になるとのことで、次期当主様は、早いうちから性教育をお受けになります。鎧鏡家にとって、お世継ぎをお迎えするということは、何よりも重要なことですので。 そして……若様が精通を迎えたのち、占者様の占いによって決められた最も相応しい日に、筆おろしの儀、という儀式が執り行われる決まりがございました。 次期当主様が、初めて他人の体内に、精をお放ちになる儀式、で、ございます。 その儀式を終えたのち、若様への正式な夜伽教育が施されていく決まりでございました。 この筆おろしの儀には、若様の夜伽教育の開始……という意味だけではない、重要な役割がございました。 鎧鏡家は、サクヤヒメ様のご加護をいただく一族でございます。人が神にご加護をいただき続けることは、並大抵のことではないようです。そのために、様々なひずみが生まれ、そのひずみを受け入れることで、均衡を保っているのだそうです。 そのひずみは、ある種の呪いとなって、鎧鏡家に存在しているといいます。占者様のご祈祷により、ある程度の呪いは昇華していただけているようですが、どうしても消し去ることの出来ない呪いも、いくつか存在しているということでした。 若様の筆おろしにまつわる”呪い”も、どうしても避けることの出来ない呪いのうちの一つだといいます。 それは、若様が、この世に生を受けて初めて交わった人間は、若様に心を囚われる……と、いう呪いです。 この筆おろしの儀式というものが生まれる前、初めて若様と交わった者が、若様に心を囚われ、ある時は人を殺め、ある時は戦を起こしたという時代があったといいます。 そのため、若様に心を囚われても大丈夫な者が、若様の初めての閨のお相手をするという、筆おろしの儀式というものが始まったというのです。 若様の筆おろしのお相手に選ばれるのは、若様が心を許す者への嫉妬にかられ、人を殺めたり、また、若様を己のものとせんがため戦を始めたり、ということを決してしない者……すなわち、若様に生涯にわたり、家臣としてお仕えすると、強く心に誓った者……若様の初めての家臣である上臈が務めること、と、決められたのだそうです。 私が若様の上臈を任命される前日、お館様の上臈であられる櫂様に呼び出され、若様の筆おろしにまつわる話を伺いました。 この話をなさった最後に櫂様は『今なら辞退も可能だ』と、おっしゃいました。この話を聞き、出来ぬと思ったのならば、上臈の任命を辞退することも可能だと、おっしゃったのです。 ですが私は、何の迷いもなく上臈職を賜りました。 上臈候補として、青紙招集されていた私は、曲輪に初めて若様がいらっしゃった日、大人の家臣たちに混じって若様をお迎えすることを許されました。 お館様が肩を抱いた御台様の胸に抱かれ、真っ白なレースのおくるみの中、この騒ぎが聞こえていないのかと思うくらい、お健やかに寝ていらした若様のお姿のお美しかったこと……。 私はそのお姿を見た瞬間、生涯若様についていける喜びを、全身で感じました。 他の誰にも、若様の上臈職を譲る気はありませんでした。たとえ、どのような呪いをこの身に受けようとも。 若様の筆おろしの儀式は、若様の精通を待って行われるものです。 いつ来るともわからない若の精通を待つ間、上臈は人知れず、儀式を滞りなく終わらせるための”準備”をすることになっておりました。 若様の成長の度合いを見ながら、その準備は始めることになると伺っており、若様が10歳の誕生日を迎えた日、儀式の準備を始めると、櫂様よりご指示いただきました。 初めて、"準備"を行う地下室に櫂様に連れて行かれたその日、若様の夜伽の先生が、若様の筆おろしのための"準備"を、私にご教授くださる先生だと、櫂様に紹介されました。 「蔵路実千(くらじさねゆき)です」 そう自己紹介なさった蔵路先生は、私よりも10歳上の29歳だと、にこりと笑ってくださいました。 蔵路先生は、夜伽の先生という職業がぴったりという雰囲気のかたで、まだ恋愛というものをしたことがなかった私にでもわかる、男性の色気……というようなものを纏っていらっしゃいました。 多くの大人の男性に混じって、曲輪での訓練を受けてきた私でも、こんなかたにお会いしたことはなく……何故か少々恐怖心を抱いたのを、覚えております。 筆おろしの準備とは、すなわち夜伽の準備です。 私は、若様の初めての夜伽のお相手をつつがなく終わらせるために、蔵路先生から、夜伽の手ほどきを受けることになったのです。 櫂様は蔵路先生に、私のことを『何も知らない純粋な子』だと、紹介なさいました。 それを聞いて蔵路先生は『そのようですね。そのつもりで、つとめさせていただきます』と、私に手を差し出しました。 私は急いで手を出して、握手をしました。 それが、蔵路先生に触れた初めての瞬間でした。 バチッという、静電気よりも強い衝撃が手で弾けて、私は驚いて手を放そうといたしました。 ですが、蔵路先生に手を掴まれたままで、離すことが出来ませんでした。 「……驚いたなぁ」 先生はそうおっしゃって、目を見開いていらっしゃいましたが、私を見て『ね?』と、すぐに笑顔になりました。 「痛かった?」 そう聞かれて首を横に振ると『良かった。私も痛くはなかったよ』と、キュッと強く私の手を握って、優しく手を放してくださいました。 そのあと櫂様が『では、駒をよろしくお願い致します』と、先生に頭を下げ、私に『先生には恋情を抱かないに越したことはないよ』と、耳打ちなさってから、部屋を出ていかれました。 先生に恋情を抱くだなど……櫂様は何をおっしゃっておいでだろう。ですが、その言葉に憤慨しているどころではありませんでした。 二人きりになってしまった部屋で、私の緊張は、一気に高まっていたからです。 これから、倉路先生と……夜伽が、始まる……。 胸が苦しいほどに、心拍数が上がっているのがわかります。 うつむいた私に先生は『若が大人におなりになるまでは、まだ時間がかかるはずだ。急ぐことはない。お互いを良く知ることから始めようか』と、私ににこりと笑いかけてくださいました。 その日から、蔵路先生による”準備”は、毎日のように行われました。 ”準備”と申しましても、蔵路先生は私に、夜伽に繋がるようなことは、一切していらっしゃいませんでした。 ”準備”は、若様が寝静まった夜からか、私がお休みをいただいた日の昼間に行われることになっておりました。 蔵路先生は、ただ私と会い、夜は私の話を聞いたり、共にチェスやゲームなどをし、昼間は私を色々な場所に連れ出してくださって、ただただ私と一緒の時間を、笑顔を絶やすことなく過ごしてくださったのです。 そんな時間を、先生と一緒に半年以上過ごしたのち、私は二十歳の誕生日を迎えました。 その日、櫂様からお休みをいただいた私を先生は、私が今まで行ったことがないと話していた遊園地に、連れて行ってくださいました。 『おっさんと二人じゃキツイかもしれないけどな』と、笑った先生に、私は泣きたいくらい感謝いたしました。 幼い頃より、若様の上臈になるため必死で訓練して参りました。世間一般的な子供ではなかったと、自負しております。子供のうちに経験するような遊びはしてこなかった私に、子供の時間を取り戻すかのごとく、先生はこの半年、私と一緒に過ごしてくださっていたのではないかと、この時そう感じたのです。 日も暮れてきた頃『これに乗ったら帰ろうか』と、観覧車に一緒に乗りました。ゆっくりと上昇する観覧車の中で、西の海の中に日が沈んで行くのが見えました。 観覧車の電飾が灯り、遊園地のそこここが夜の顔を見せ始めた時、観覧車は頂点に登って、先生が私の隣に座りました。 ガタンっと揺れた驚きで先生の腕を掴むと、先生は『誕生日おめでとう、新(あらた)』と、私の本当の名を呼んで……そっと私に、初めてのキスを、なさいました。 初めて先生の手に触れたあの時のような、バチッという大きな衝撃が、触れた唇ではなく、胸の奥で弾けました。あまりの衝撃のためだったからか、私は意図せず号泣してしまいました。 先生は『ごめん、驚かせたね』と、私を抱きしめてくださったのですが、自分がどうして泣いているのか、自分でもよくわからなかったのです。 そして……その日、私は初めて、先生に抱かれました。 半年、ただただそばにいてくださる先生に、私はいつの間にか……惹かれていたのだと思います。 初めての夜だというのに、私は全く、怖いと思いませんでした。身も心も先生に委ねて、ただただ……ただただ……夢心地、でした。 若に精通が参りましたのは、それから三年後のことでございます。 私と先生の”準備”は、三年続いていたのです。 その三年の間には、先生も私も、本来の仕事が忙しくなって参りました。先生は、表の顔は産婦人科医でいらっしゃいました。 先生はいつからか、”準備”をするという日には、何も書いていない手紙を私のもとに送っていらっしゃいました。 上臈である私に、今夜どう?などという内容の手紙を送ることは出来ないと笑った先生が、”準備”が出来る日には、何も書いていない真っ白い手紙を送るから、あの地下室で待っておいで……と、そうおっしゃったのです。 何も書いていない真っ白い手紙……それは、先生から私への、夜伽の誘いに他なりませんでした。 肌を重ねるごとに、先生への恋情を強く強く募らせていた私は、どれほどこの真っ白い手紙を待ちわびていたかしれません。 ですが……私のこの想いは、お伝えしてはならないとずっと黙っておりました。先生はお仕事だから、私によくしてくださっているだけだと、そう思っていたからです。 先生への想いがどうにもならないほどに膨れた頃、若様に精通が参りました。 若様の筆おろしの儀式を行えば、私は若様に心を囚われてしまいます。 呪いが解けるのは、若様が真に心を分かち合うかたと契られた時……そう聞いておりました。 それは、若様が真に心を分かち合うかたと契ることがなければ、私は一生若様に心を囚われ、若様を慕い続ける……ということです。 今、狂おしいほどに先生を求めるこの気持ちが、筆おろしの儀を済ませたあと、なくなってしまうなど、私にはどうしても信じられませんでした。 こんなにも胸をしめつけるこの想いが、呪いなどという不確かなもので消せるわけがないと思っておりました。 消せるものなら消して欲しいとも、思っていたかもしれません。それほどに、この頃には、先生への想いをずいぶんとこじらせていたのです。 筆おろしの儀の日程が言い渡されたその日、先生が思いつめた顔で、私のもとにいらっしゃいました。 『伝えるつもりはなかったが』と、私の目をじっと見つめて、いきなり『愛している』と、おっしゃったのです。 若様の筆おろしの儀が終われば、私は若様に心を囚われ、先生を少しずつ知っていったあの半年間も、体を重ね続けたこの三年間も、その記憶を全て失うことになると、先生がおっしゃいました。 若様が心から愛するかたと契れずに一生を終えれば、私の呪いも一生解けることはありません。 先生は、その呪いを受ける決意をして、上臈職を受けた私の心をかき乱してはいけない、愛してはいけないと、ずっと自分の気持ちを押し殺してきたと、そう言ってくださいました。 この日、先生が私にお気持ちを伝えてくださったのは、もう数日後には私は呪いにかかり、先生のことを忘れてしまうから……。 先生は『お前の心をかき乱すことになるとしても、もうどうにもこの胸だけにおさめていられなかった。たった数日でもいい、私の想いを知ったお前を……私のものにしたい』と、私を強く抱きしめました。 先生の腕の中で、私は涙でぐしゃぐしゃになりながら、どこかでただの言い伝えだろうと軽く考えていた呪いが本当なのだと、悟りました。 呪いが本当でなければ、先生が私にお気持ちを打ち明けることはなかったと思います。 何度先生に『私も愛しています』と、叫んだかわかりません。 先生のことを忘れるなんて、ただの言い伝えであってほしい。筆おろしまでの数日、寝る間も惜しんで、先生に抱かれる間、そんなことばかりを願っておりました。 私の呪いが一生解かれなければ、先生のことは覚えていても、先生に対するこの狂おしいほどの気持ちと、この気持ちに伴う記憶を、一生失うことになる。 先生を愛しているというこの気持ちが、私の意思とは関係なく、私の中から消え去ってしまう。 先生、先生と、必死でしがみつきました。 先生……先生を愛しているという、私の胸のほとんどを占めるこの気持ちが、いったいどこに消えてなくなるというのですか。 やっぱりただの言い伝えだったねと、筆おろしの儀ののち、先生と笑い合っていたい。 強く強く先生を想っていれば、先生へのこの想いが消えることなどありえない。 その時は、そう思っておりました。 若様の筆おろしの儀式は、おぼろげながら記憶にございます。 私を目の前にした若様の陽物は、いつまで経っても勃ち上がることはなく、蔵路先生が無理矢理、若様の陽物に刺激を与え、私の尻をほぐす準備を同時になさっていたことも覚えております。 今思えば、蔵路先生にあのようなことをされ、自分がよく冷静でいられたものだと不思議に思いますが……あの時は必死だったからでしょうか。 若様がそろそろ射精なさるだろう時、蔵路先生が、若様の陽物を私の尻にあてがい、若様ごと、私の体を包むようにして、若様が私の中に射精するのを促しました。 若様が私の中にお入りになってすぐ射精が済んだようで、若様は私の中から陽物を引き抜くと、こわばった顔で私を一瞥し、儀式室から飛ぶように出て行かれました。 私を……さげすむように見た、若様のお顔……。 私の筆おろしの儀の日の記憶は、何故かそこで途切れております。 あれから何度も、あの若様の私をさげすむ顔を、夢で見ました。 望まない筆おろしの儀式の強制的な実行は、まだ13歳の若様のお心を傷つけるには十分すぎる出来事です。 若様はそれから、勃起不全に陥りました。私はどれだけ自分を責めたかしれません。 その私を、いつも慰めてくださったのは、筆おろしの儀を共に遂行してくださった蔵路先生でした。 蔵路先生とは、ずっと以前にお会いしているはずなのですが、先生と出会った時から、筆おろしの儀式までの記憶はひどく曖昧なものでした。 ですが、私がそれを深く考えることはありませんでした。私の心は、若様に嫌われてしまったのではないかという恐怖心で、いっぱいだったからです。 若様のお気持ちを取り戻すことばかりを、いつも考えておりました。近くにいたらいいのか、少し距離を取って見守ったらいいのか、それさえ手探りで、日々若様の顔色を窺うような生活を、ずっと送っていたのです。 若様の、あのさげすむような眼を思い出すだけで、恐怖心で足がすくむというのに、若様のお姿を目にするだけで心が躍り、胸が苦しくなるということの繰り返し……。 この気持ちは、筆おろしの儀式に伴う呪いによるものだろうと、頭ではわかっていたのですが、そんな理屈など、この時の私にはどうでもいいことでした。どのような始まりであろうが、私の心は実際に、苦しいほどに若様を求めていたのですから。 若様が16歳になった誕生日、若様の奥方様候補を決める、初めての展示会が開催されました。 桃紙で招集された奥方様候補予備軍が大広間に集められた中、若様が指名なさったのは、最初から決められていた四人……私、誓、梅様、お詠様、だけでした。 若様を守る目的で、最初から若様に指名されることが決まっていた四人以外、若様はどなたもご指名にならなかったのです。 私は、心の底からそれを喜んでおりました。 もしかしたら私が、若様の奥方様になれるかもしれない……そんなことを夢見た日も……恐ろしいことに、実はあったのです。 穏やかな一年が過ぎ、若様の二度目の展示会が開かれる頃には、私と若様の関係は、前のそれにだいぶ戻っていると感じておりました。 私は必死に自分の気持ちを押し殺し、若様の上臈として、完璧な仕事をすることだけを考えるようにつとめておりました。 そして、若様の17歳の誕生日……あの運命の日を迎えたのです。 雨花様をご覧になる若様を見た瞬間にわかりました。若様は、このかたをお選びになるだろうと。 その勘は見事あたり、若様は雨花様を奥方様候補にご指名なさいました。 それからの日々は、若様にとって怒涛の連続で……それは、私にとっても同じことでございました。 日ごと雨花様に惹かれていかれる若様の気持ちが、痛いほど私にはわかっておりました。 何食わぬ顔で、『雨花様をひいきにしてはなりません。こう申しますのは、雨花様の身を案じるがためです』と、若様に説明する裏で、雨花様をひいきにはしないで欲しいなど、私の、若様を求める嫉妬心から出た言葉のように思えて、どれだけ罪悪感にさいなまれたかしれません。 若様を想う気持ちから、雨花様に強く当たっているような気がして、雨花様と距離を取ろうとしたことも幾度もございました。出来る限りつとめて、自分の気持ちをおさえていたつもりです。 それでも……どうにもならない嫉妬に、かられた日もありました。 若様が、初めて雨花様をお求めになった日、梓の丸に行かれたという若様を追いかけた私は、梓の一位と共に、部屋の中から漏れ聞こえる雨花様のお声を、ドアの外で聞いてしまいました。 苦痛とも快楽とも思えるそのお声に、心が散り散りに砕けてしまうようでした。私は、雨花様を心配する一位に何の言葉も掛けられず、早々にその場をあとにし、気が付くと、本丸の地下に立っておりました。 ここがどこなのか、わかりません。なぜこのようなところに来てしまったのか……。ですが、どうにも気になって、目の前にある小さなドアノブを、そっと回しました。 その部屋の中には、大きめのベッドが一つ、置かれているだけでした。 記憶にはないこの部屋の空気を吸った時、なぜか私は、無性になつかしさを感じ、ベッドに突っ伏して大声で泣きました。 そこで、ふいにドアが開いたのです。 びっくりしてドアのほうを見ると、そこに立っていたのは、蔵路先生でした。 「先生?」 私も知らないこの部屋に、どうして蔵路先生が? 蔵路先生は若様の夜伽の先生で、あの筆おろしの際、ご一緒にいらしたがために、私と同じように罪悪感を抱えていらっしゃるのを存じておりました。 そのため、若様に色々と……男娼まがいの者をあてがおうとなさっていたのも存じております。 今夜、若様はどのような形であれ、ようやくご自分の意思で、人と交わることが出来たのです。先生にとっては、これほど喜ばしいことはないでしょう。 私は先生に『おめでとうございます』と、伝えようと思いましたのに、あとからあとから涙がこぼれて、うまく言葉が出てきませんでした。 「いいんだ。いいんだよ」 先生はそうおっしゃって、壊れ物を触るように、私をそっと抱きしめました。 先生に抱きしめられた時、胸の奥に雷が落ちたような、大きな衝撃を受けました。驚きと共に引っ込んだ涙を見て、先生は『体は覚えてくれているんだな』と、ぼそりと呟かれました。 「え……」 「何か、つらいことがありましたか」 先生はそうおっしゃって、指で私の涙を掬いました。 蔵路先生は、夜伽の先生というだけある、色気のある大人の男性で……私は少し、ドキリと胸を鳴らしました。 先生に、若に今起こっていることをお知らせしようと思うのに、何かつらいことがあったのかと、そう先生に聞かれて、私は何も言えなくなってしまいました。 私が今流している涙は、先生から見ても、明らかに悲しみにくれる涙だったからです。 若様が、生まれて初めて自らのご意思で夜伽をなさったことは、先生にとっても一門にとっても、大変喜ばしいことであるのに、私はそれを喜ぶどころか、悲しみにくれているのです。 悲しむだけならまだしも、私の中に、醜い嫉妬があることも、私は気づいておりました。 このような気持ちのまま、今若様に起こっている出来事を、私の口からは、どうしても告げることが出来ませんでした。 先生は『何も言わなくていいんです。駒様にも、泣きたい夜があるでしょう』と、私にハンカチを渡してくださり、しばらく背中をさすりながら『少し、私の話をしてもいいですか』と、先生の恋の話を、聞かせてくださいました。 夜伽の先生となるべく、精通が来てから毎日、性交することを強要されてきたと、蔵路先生は、話し始めました。 男女問わず、数えきれない人数と交わる中で、蔵路先生は、人の体を見ただけで、その人の性感帯がわかるほどになっていったと笑いました。 不感症だとおっしゃる方も、先生の手にかかれば、途端に昇天なさったと、自慢するように話した先生は、そこで急に声を落としました。 そのような生活を何年も送る中で、ある日先生自身が不感症になってしまったというのです。交わることは出来たそうですが、誰と交わっても、全く快楽を得られなくなった、性交は先生にとって、ただの仕事……そうなっていたと、先生はおっしゃいました。 そのような性交は、ただの苦痛でしかなかったと、先生は寂しそうに私に笑いかけました。 けれど先生は、そんなある日、一人の純粋な人に出会ったと、顔を明るくなさいました。 仕事を通じて出会ったというその人は、しばらく先生を警戒していたと先生は笑いました。仕事として、その人と仲良くならなければならないと思った先生は、その人が喜びそうなことを必死でリサーチして、実行していったと言います。 それまで、その場限りの人間関係ばかりを結んできた先生が、誰かを喜ばせるために奮闘したのは、この人が最初で最後だろうと、そう笑いました。 そのかいあってか、その人が先生に少しずつ心を開いてくれるのが、先生は何よりも嬉しかったとおっしゃいました。人に喜んでもらうことがこんなに幸せなことだったのかと、先生はその時初めて知ったといいます。 先生はそれに気づいた時、その人に、生まれて初めての"恋"をしている自分に気付いたのだそうです。 先生は、その人を抱く時だけは、それまで感じたことがないくらいの快楽に溺れたとおっしゃいました。もう7年も、その人にずっと恋をしていると、そんな素敵な話をしてくださったのです。 「素敵ですね。七年も、そんな風に、愛し愛され続けられるなんて……」 私はどんなに求めても、若様に愛されることは……一生、ない。 「……そうですね。心から、愛しています」 この先生に、こんな風に言ってもらえるなんて、一体どんなかたなのか。 心を落ち着かせた私は、先生にお礼を告げ、自室に戻りました。 その後、若様が雨花様と夜伽をお済ませになったことは、誰にも話さないようにと、大老様より命じられました。 若様の勃起不全は、雨花様の前でだけなりを潜め、他にどれだけ魅力的な人間をあてがおうと、雨花様以外には、ピクリともなさらないというのです。 この事実が内外に知られれば、若様の奥方様は雨花様で決定だと、知られてしまうことになります。 私は言われた通り、倉路先生にも、その話はしませんでした。 倉路先生にだけは、お教えして差し上げたかったのですが……。 雨花様に思いを募らせる若様のおそばにいるのが、大変な苦痛になっておりました。 若様が雨花様をお娶りになる日、私の呪いは解け、この苦痛も消えてなくなる……そうなるはずだと聞いてはおりましたが、私には、若様を求めるこの気持ちが呪いによるもので、雨花様を娶った瞬間に消えてなくなるものだとは、到底思えませんでした。 若様に愛されている雨花様を、強烈にうらやましく思い……深く自分の心を覗き見れば、奥底で、殺意に似た気持ちが芽生えそうになっていることに、気づいてしまっておりました。 このような凶暴な心で、お二人のおそばにはいられない……。 そんな凶暴な自分の心に気づいてしまった日、私は、若様が雨花様を娶るその日……上臈職をおろしていただこうと、そう、決意致しました。 そして、若様が雨花様を娶ると宣言することを決意なさった、新年会が始まりました。 今日若様が、雨花様を娶ると宣言することを知っていた私は、朝からどこかふわふわとした心持ちでおりました。 この新年会が終わったら、上臈職を辞する覚悟でおりました。 そして……その時は、あっけなく来たのです。 若様が、雨花様を娶ると宣言し、その場にいたみなが、若様の宣言を受け入れた瞬間……だったのでしょうか。 私の中から、何かが飛び出した感覚を覚えました。 ほんの少し、視界が暗くなったと思った次の瞬間、ブワッという勢いで、失われていた全ての記憶が、私の中に戻って参りました。 それと同時にあふれ出す、先生への想い……。 先生との時間を忘れていた五年間を一気に埋めるように、先生への気持ちが、あとからあとから溢れて、私はその場で、嗚咽しそうになりました。 御台様の計らいで大広間を出た私は、先ほど先生からいただいた真っ白い手紙を握り占めて、きっと先生がいらっしゃるだろうあの地下の小部屋へと急ぎました。 若様が、初めて雨花様と夜伽を済ませたあの夜、先生に泣きついたあの時以来、足を踏み入れることのなかったこの地下の小部屋は、若の筆おろしの準備と称して、先生に毎夜のように抱かれたあの三年間のまま、そこにありました。 バンッと開いたドアの向こうに、少し涙目になっている蔵路先生が立っていました。 本当は今すぐ、先生の胸に走って飛び込みたいのに、この五年間のことを思うと、怖くて足がすくんでしまいました。 私は、あんなに愛していると言ってくれた先生を、呪いのためとはいえ、きれいに忘れていたのです。 こんな私を先生は……今、どう思っていらっしゃるのですか……。 「先生……」 そう先生を呼ぶだけで、愛しさに胸がつぶれそうになります。 「新!」 先生は、ただただ立ちすくむ私に駆け寄って、きつく抱きしめてくださいました。 その瞬間、私は体を一気に貫かれるような快楽に包まれ、気を失ったのです。 うつらうつらとした、漂うような快楽の中薄く目を開くと、先生が私の頬を、いとおしそうに撫でていました。 「先生……」 「先生としてではなく、お前をこの腕に抱きしめたい」 「……」 「私の名を忘れたか?」 覚えているに、決まっています。 だけど、ただ名を呼ぼうとするだけで涙がこみあげてきて、言葉にならないのです。 涙をためた私の目尻に、先生が、そっとキスをしました。 「新……」 「……実千(さねゆき)さん……」 名前を呼んだだけで、号泣しだした私を、実千さんは胸に抱いて『もういいんだ。呪いは解けた。全部終わったんだよ』と、泣き止むまで背中をさすってくださいました。 「儀式の前は、先生を忘れることなんて、絶対にないと思っておりました」 「私も、もしかしたらそうなるんじゃないかなんて、思っていたよ」 「……恐ろしい」 この身をもって、鎧鏡家の力を思い知ったのです。素直に恐ろしいと、そう思いました。 「全くだ」 視線を合わせるたび、先生が私にキスをしてきます。 唇が重なるたび、快楽が私の体を駆け抜けていくようで、先ほどから私は、何度も小さく体を震わせておりました。 「若の二十歳の誕生日まで、呪いは続くものだと思っていた」 「私も、そう伺っておりました」 「雨花様は、鎧鏡の名をたまわったわけではないが、正式に若の嫁になったと、そういうことなんだろう」 「……はい」 今、雨花様には感謝の言葉しかありません。 雨花様がいらしたあの日から、雨花様を……疎ましく思った日も、少なからずございました。ですが雨花様は、いつも私を頼り、信じてくださいました。 幼少期より、特殊なお育ちである若様が、誰か一人に心を傾けるなどないかもしれないと思ったこともありました。 私が実行した筆おろしの儀によって、失われた性的な機能も、それに拍車をかけているのではないかと、どれだけ罪悪感にさいなまれたことか……。 若様に心を囚われていたあの頃は、若様がどなたか一人を選ばぬのなら、若様を他の誰かに取られることはないと……ひそかに安堵することもありました。 ですが、こうして呪いが解けた今、あのまま若様が、どなたにも心を寄せることがなかったら、こうして先生の胸の中に私が戻ることは一生なかったのかもしれないと、本当に恐ろしく思います。 そんな若様の心を動かしてくださった雨花様の存在に……そして、雨花様をこの世におろしてくだされ、出会いの機会を与えてくださったサクヤヒメ様に……こうして、先生の腕の中におさまれた今に繋がる全ての要因に、感謝しても、感謝しても、しきれない思いがあふれて、私はまた泣き始めました。 「新……そろそろ泣き止んで、私を見て欲しいよ」 「先生……」 「この五年間、耐えたんだ。もう少しだと言うなら我慢するが……」 そう言って笑った先生の胸に、私は顔をうずめました。 「涙は止まりそうにありません。だから……私の涙など気にせず……我慢など、なさらないで……私を……」 どこまでも……求めてください。 その後、私は新年会の会場に戻ることなく、五年間を埋めるように、一晩中、先生と肌を重ねました。 全く新しい朝でした。 先生と地下の小部屋で迎えた朝は、すでに朝というには遅い時間で、私は生まれて初めて、寝坊というものをしてしまいました。 誰にどう連絡をしたらいいのか固まっておりますと、先生がのんびりと伸びをなさり『櫂様から、今日の午前中はお休みしたらいいと連絡をもらったよ。もう少し寝ていよう』と、私の腰に抱きつきました。 「そういうことは、早くおっしゃってください」 「かわいく寝ているお前を起こすのは忍びなかったからね」 「……私はもう、かわいいという年ではありません。もうすぐ30ですよ?」 「私だって、もうすぐ40だ。私からしたら、お前はいつまで経っても、かわいい新だよ」 「……」 「ほら、怒っていても、こんなにかわいい」 先生はそう言って、私にキスなさいます。 「そんな風におっしゃるのは……恥ずかしいのでやめてください。午前中はお休みをいただいたとしても、もう支度をせねば、午後の仕事に間に合いません。お放しください」 私は腰に抱きついている先生を引きはがして、着物を着ました。 『今日くらい休みをもらってもいいと思うが』なんて文句をおっしゃっている先生にキスをして『早めに終わらせます』と、伝えました。 この部屋とは別に、本丸の地下にある先生の部屋で、先生は私を待つとおっしゃいました。 「いっておいで」 支度を済ませた私にそう言って、長いキスをした先生を背に、地上への道を歩き始めました。 仕事が終わったら、先生と出会ってすぐの頃のように、先生とたくさんの話をしよう。 この五年間の先生を、私はよく知らないから、少しずつ教えていただこう。 先生が話してくださった、”初恋の相手”についても、詳しく聞いておかなければなりません。 私が苦しい片思いを先生にしていた頃、先生はそんなこと、一言もおっしゃってくださらなかったのに……。先生にはいつも余裕があって、ただただ私を包みこんでくださっていました。先生に心を許していった私が、先生にどれだけわがままを言っても、笑って聞いてくださって……。それは先生が、お仕事として私に接してくださっているからだと、ずっとそう思っておりました。私は先生にとって、ただの夜伽の生徒だと、そう思わなければと、思っていたのです。 先生は、私に愛しているとおっしゃってくださったあの日よりも前は、私に、好きだのなんだの、そんな言葉はただの一言もおっしゃってはくださらなかったですから……。私が先生を好きだなど、そのようなことは決して言ってはならないと、そう思っても無理はありません。 あの頃、先生の気持ちが自分にはないと思っていた私がどれだけ苦しかったか、恨み言をたくさんたくさん、聞いていただかねば……。 そして、今まで知らなかった先生を、もっともっと、教えていただきたい。 夕べ先生から、若様がとっくの昔に夜伽を済ませていたことを、先生も随分前からご存知だったということを伺いました。それでも毎年お正月に、若様に男娼まがいの者を贈られていたのは、長年、私の気持ちをかき乱した若様に対する、先生の精一杯の嫌がらせだった……と、話してくださいました。 私の心がかき乱されていたのは、決して若様のせいではないでしょうと、その話を伺った時にはあきれたものですが……先生のその話を聞いて、私は先生を無性に愛おしく感じました。 私が知らない先生を、これからたくさん教えてください。きっと私は、そのたびに先生への恋情を、重ねることになるのでしょう。もう二度と忘れることがないように、幾重にも幾重にも、先生への気持ちを、塗り重ねていきたいのです。 ああ、そうだ。 いつか、若様と雨花様の若子様のもとにくる次の上臈が、少しでも苦しまないように、忠告したほうがいいでしょうね。これは大切なことなので、次の上臈に引き継ぐ、上臈日記に記しておいたほうがいいかもしれません。 『若様がご結婚を決意なさるまで、恋はなさらないことをおすすめします。苦しみを乗り越える覚悟があるのなら、その恋に飛び込んでみてもいいでしょうが』……と。 fin.

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