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六位のお薬~過去最高額の褒美編~
「あああああ!」
本日のおやつを雨花様にお出ししてすぐ、ノックもせずに雨花様のお部屋に入ってきた六位が大声を上げました。
「なんですか?そんな大声を上げて。いえいえ、それよりも、雨花様のお部屋にノックもせず入ってくるなど……」
「食べ……ちゃいました、よねぇ」
私が出したおやつ……その日は、梓の丸の賄い方に属する菓子番の胡桃(くるみ)が焼いたフィナンシェ……を、雨花様が一口召し上がったところでした。
「え?あ、え?食べたらいけない物でしたか?うわ、ごめんなさい。かじっちゃいました。ふたみさん、かわりの物、何かありますか?」
雨花様はそう私に聞いていらっしゃいましたが、これはれっきとした雨花様のおやつでございます!六位が何か勘違いをしているのでしょう。
「いえいえ雨花様。こちらは雨花様の本日のおやつで……」
「違うんですって、二位様」
「は?何がですか?」
私は、厨にあった焼き菓子をお持ちしたのです!何が違うと言うのですか!
そこに、この焼き菓子を焼いたであろう、うちの菓子番の胡桃が、青い顔をして走って参りました。
「どうしたのですか?」
私がそう聞きますと、胡桃は泣きそうな顔をして『申し訳ございません!』と、ただただ何度も頭を下げ続けます。
「ああ……雨花様、一口がでかいですって」
「え?え?」
雨花様はなんのことかわからず、一口かじられたフィナンシェを持ったまま、困った顔をなさっていらっしゃいました。
私も、何のことやらさっぱり……。
「それだけ食べてしまったのなら、もうどうにもなりませんね。若様を呼んでいただきましょう」
「え?どういうことですか?」
「その菓子の中に、薬が混ざってるんですよ」
「は?」
薬?
「私が開発したばかりの新薬です。今夜、三の丸の新参者と、効能を試そうと思いまして。薬のまんま飲ませようとしても、なかなか飲まないでしょうから、胡桃に頼んで菓子に混ぜってもらったんですよ」
三の丸の新参者と、試そうと?……とは……え?どういうことやら?
「六位、その薬とは……」
「わかりやすく言うと、媚薬、ですかね」
雨花様と私は、声を揃えて、『媚薬?!』と、叫んでしまいました。
「解毒剤は出来てません。ちょっと強力かもしれませんけど、所詮、媚薬ですから。死ぬようなことはありませんので、ご安心ください」
「なんと!そのような怪しげな薬!安心できるわけがないでしょう!雨花様!吐き出せますか?!」
媚薬の新薬だなど!そのようないかがわしい物を雨花様の体内に入れるなど、雨花様の二位職として許すことは出来ません!
「え、吐く?」
雨花様が躊躇なさっていらっしゃるので、私は雨花様を吐かせようと手を伸ばしたところで、ガッ!と六位に手首を掴まれました。
「いやいや、二位様。もう手遅れですって。すでに吸収が始まってると思います」
「なんと……」
「言っときますけど、雨花様に食べさせたのは二位様ですからね?」
「なっ!」
「私も二位様も、胡桃も、みーんな同罪ってことですよ」
なんという屁理屈!
「胡桃、なぜこのような物を!」
胡桃は泣きそうな顔で、『本当に申し訳ございません!』と、その場に土下座しました。
「私に弱みなんて握られちゃあ駄目なんですよ」
「胡桃を脅して作らせたのですか!」
「ああ、ほらほら、二位様が怒っていらっしゃる間にも、雨花様の体にどんどん吸収されてますから、早く若様を」
「え、あの!媚薬って……どんな風になっちゃうんですか?」
雨花様は眉を寄せて、六位にそう質問なさいました。
「大丈夫ですよ、雨花様。ちょっとヤル気になるだけです。いや、だいぶ……ですかね」
「やる気?」
「もちろんセッ……」
私は、急いで六位の口を手でふさぎました。雨花様に向かって、セッ……など!
ああ、まったく……なんてことをしてくれたのでしょう。
「とにかく、気が済むまでヤればおさまりますから。なので早く若様をお呼びください」
私は雨花様のお部屋を飛び出して、一位様のもとに急ぎました。
「一位様!」
「どうしました?そのように慌てて」
一位様もお茶休憩の時間だったようで、使用人の控室で、ソファに座り、優雅に足を組んで、本をめくっていらっしゃいました。
私が、今雨花様の身に起こったことを説明いたしますと、『なんということでしょう』と、眉を下げられました。
「全く困った者です」
「いえいえ、六位は確かに困ったものですが……そうではなく。今、若様は日本にいらっしゃらないのです」
「えっ?!」
「今朝早くから、お館様のお仕事にご同行なさり、ソウルに行ってらっしゃるはず」
「ソウル?!」
「お帰りは、今夜遅くと聞いております」
「ああ……」
本当に、全くなんてことでしょう。
とにかく雨花様のところにとおっしゃる一位様のあとについて、雨花様の部屋に戻りました。
部屋に戻ると、雨花様の脈を取る九位様がいらっしゃいました。
「九位様!いらっしゃったのですか?」
「さっきちょうど帰ってきたところに、六位から電話が入って……」
「六位!」
一位様は、六位を咎めるようにそう呼ぶと、『その薬は、一体どれくらいで効いてくるのですか?若様は今、ソウルにいらっしゃって、すぐには帰っていらっしゃれないのです』と、おっしゃいました。
六位をお叱りになるかと思いましたが、それよりもまずは雨花様をどうにかしなければというご判断をなされたようです。
さすが、一位様!
「効き目は個人差がありますが……菓子と共に入りましたので、まぁ多分、あと一時間から二時間あたりで効いてくるかと思います」
「一、二時間後……」
ソウルにいらっしゃる若様が、今すぐにあちらを出発しても、二時間はかかるのではないかと思います。
「とにかく、若様と連絡をとってみます!」
一位様はそうおっしゃって、電話をかけました。
電話はすぐに繋がったようで、『若様!』と、珍しく大声をお上げになった一位様は、早口で雨花様の現状をお伝えになりました。
「お願い致します!」
「皇、何て言ってましたか?」
まだ特に何の症状も出てはいらっしゃらないご様子の雨花様が、九位様に脈をとられながら、そう一位様に聞きますと、一位様は、『今すぐにあちらを立たれると……』と、おっしゃいました。
「しかし、今すぐ立たれるとして、早くても二時間はかかるのでは?」
私がそう申しますと六位が、『効き始めから三十分後あたりが、一番クると思うんですよね、あの薬』と、顎に手をやりました。
「では、大体今から二時間半後あたりが、一番……おつらいと?」
「そうだと思います」
「媚薬って……あの……漫画とかに出てくる、そんなん、ですか?」
雨花様が六位にそう声をかけると、『漫画よりえぐいかもしれません』と、六位が返事をいたしました。
「なんということでしょう!」
ああ!あの時、私がもっとちゃんと確認をしていたら……。
私が雨花様に、『本当に申し訳ございません!』と、頭を下げますと、胡桃も後ろで、『二位様は悪くありません!私が作ってしまった物を、あのようなところに置いたばかりに……本当に申し訳ありません!』と、さらに頭を下げました。
「いえ、あの、死んじゃうわけじゃないですから。ですよね?むつみさん?」
雨花様がそうおっしゃると、六位は、『もちろん!死のうと思ったって死ねませんよ、その程度じゃ。あ、昇天するって意味なら……』などと言い始めたので、私はまた、六位の口を手で塞ぎました。
「六位っ!反省してくださいっ!」
六位は、何度かうなずいて、私の手をどかしました。
「とにかく、薬が効いてきたら、ヤればいいだけの話なんですから」
六位がそんな風に申しましたので、もう、腹が立って、腹が立って……。
「なんといかがわしい!」
本当に、なんという物を作ってるんですか!
「そうおっしゃいますが、二位様も精のつく料理を作ったりなさいますよね?」
「それとこれとは!」
「目的は一緒じゃないですか」
「……」
く……確かにそれは、そうですが……。
「言っときますけど、この薬は、依頼があって作った物です。誰からの依頼かは言わないでおきますけど。私への暴言は、依頼主への暴言にもなりかねませんよ。暴言はお控えいただいたほうがいいかと」
六位は、次期薬司寮長との噂があり、薬司としての腕は大変優秀だということはわかっております。もともとは若様の薬司として、本丸の薬司寮につとめていた六位に、そのような依頼をするおかた……。
六位の物言いですと、位の高いおかた……かもしれません。いや、もしかすると、若様ご本人という可能性だって……ないことは、ない、かもしれません。
私はそれ以上、何の文句も言えなくなってしまいました。
「しかし雨花様……驚かせて申し訳ございません。しかし、健康面においての安全性はお約束致します。体に害は決してありませんから」
六位はそう言って、雨花様の前で膝をつき、深く頭を下げました。
「あ、はい。そこは信じてます」
「次からは、こんなことがないように、気をつけていきますので……」
「はい。そうしていただけると、助かります」
雨花様がそうおっしゃるので、私は、『もちろん!もうこんなことが起きないよう、気を付けて参りますっ!』と、六位と一緒に、深く頭を下げました。
それから小一時間ほど経ったあたりから、雨花様の呼吸が、明らかに浅く速くなっていかれました。
「雨花様?!」
一位様は、雨花様の様子が変わられたのを見ると、すぐに若様にもう一度電話をかけました。
若様は、今どのあたりを飛んでいらっしゃるのでしょうか。
若様と電話が繋がったらしい一位様は、その携帯電話を、雨花様にお渡しになりました。
「皇?」
そう話し始めた雨花様は、ふっと微笑まれて、『うん。大丈夫。あとどれくらい?うん。ん、え?ホント?……うん、ごめんね、仕事だったのに。……ん……うん……なるべくでいいから……ん。待ってる』と、言って、電話をお切りになりました。
それからすぐに、雨花様の呼吸は、どんどんと苦しそうになっていかれました。
「六位、雨花様は本当に大丈夫なんですか?!」
一位様は、それはもう本当にうろたえ始めていらっしゃって……。どなたかがうろたえてくると、誰かは冷静になるものです。私はそんな一位様を見て、冷静になって参りました。
私がしっかりしなければ!少しでも雨花様のこの苦しみをやわらげることは出来ないのだろうか……。
「六位、少しでも雨花様が楽になるために、私共に出来ることはないのですか?」
「お気持ちはわかりますが……雨花様は現在、薬の作用で、無理矢理昂ぶろうとしている最中なんです。それを抑えようとなさっていらっしゃるからお辛いのであって、サクッとセックスすれば、楽になられる。それ以外の方法はありません。ですので、私らが楽にしてさしあげた時点で、切腹どころか打首ものですよ。どうにもお辛くなるようなら、ご自分で抜いていただくほかありません。今出来ることは、若様ご到着まで、お一人にしてさしあげることでしょうか」
「なんとっ!」
ずっと雨花様のおそばで、脈を取ったり、血圧を測ったりしている九位様に、『雨花様をお一人にして大丈夫なんですか?』と、お伺いすると、『六位の言う通りかな』と、スッと立ち上がり、『お一人で処理出来ますか?』と、そんなことを雨花様にご質問なさいました。
「え……一人で……?」
呼吸を乱していらっしゃる雨花様は、お話するのも苦しそうです。
見ているこちらも呼吸が苦しくなるようで、一位様なぞは、すでに青い顔をしていらっしゃいました。
九位様は、『若様がいらっしゃるまで、私たちが立ち去るか、雨花様を移動させたほうがいい』とおっしゃって、ここは和室にご移動していただくのがいいだろうと、雨花様には和室に移動していただきました。
雨花様は、少しよろけながら和室に入られますと、敷いた布団の上に、パタリと横たわってしまわれました。
九位様は雨花様に、『若様以外、誰も近付けさせませんので』とおっしゃり、和室のドアを閉じました。
雨花様のお部屋に戻った私たちに九位様は、『経口補水液はあったか?』とご質問なさったので、私は『ございます!』と、返事を申し上げ、胡桃に厨に取りに走らせました。
『あの調子だと脱水症状を起こしかねない。私は点滴の準備をしてくるから、若様がいらしたら、その水を持って和室に入られるようにお伝えし、万が一の時は、こちらで点滴が出来るように準備をしておくと伝えてくれ』とおっしゃって、部屋を出ていかれました。
一位様は、『若様はまだでしょうか』と、部屋をウロウロなさっていらっしゃいます。
若様に最初の連絡を入れてから、まだ一時間と経ってはおりません。ソウルからここまでは、通常ですと二時間ほどかかるだろうことを考えますと、若様がいかにお急ぎでお戻りくださったとしても、あと一時間はかかるでしょう。
そのように思っておりましたところ、雨花様のお部屋の窓が、バン!と開けられました。
部屋の中におりました私共は、みな一斉に驚きの声をあげて窓のほうに視線を向けますと、息を乱したスーツ姿の若様が、窓からヒラリと、お部屋に入っていらっしゃいました。
「若様っ?!」
あと一時間はかかるかと思っておりましたのに!なんとお早いっ!
「雨花は?!」
「和室にいらっしゃいます!」
一位様がそう申し上げますと、若様は脱いだ靴を投げ、和室に駆け出しました。
ただただ若様を見送っている一位様に、『九位様からの伝言を若様に!』と、話しかけますと、『あ!』と、我にかえられたご様子で、『二位!こちらを持って共にいらしてください!』と、私に経口補水液を指差しました。
私は、若様を追いかけた一位様の後ろから、経口補水液を抱えてついて参りました。
「若様!九位より、雨花様は脱水症状を起こされる危険があると聞いております!こちらの水をお持ちください!」
若様の後ろから、一位様がそう叫びますと、若様は走ったまま、『そちら、持ってついてまいれ』と、おっしゃいました。
「いえ!雨花様は現在!」
そこで一位様が言葉を止めますと、『雨花がどう致した?』と、若様は依然として足を止めずに聞いていらっしゃいました。
一位様は、お伝えするのを躊躇っていらっしゃるようでしたので、ここは私が責任をとって若様にお伝えしようと、意を決して叫びました。
「雨花様は現在、自慰の最中かと思われます!私共が和室に入ることは出来ません!」
若様は、そこでピタリと足をお止めになりました。
あと何歩かで、雨花様のいらっしゃる和室にたどり着くというところでした。
「自慰?」
若様がこちらを振り向かれましたので、私はこくこくと、何度か頷きますと、私の少し前で、同じように一位様も何度も頷いていらっしゃいました。
「お電話にて、若様にご説明させていただきました通りのお薬でございます。つい先ほど、お薬が強く効いていらしたようで……お辛いようなら、ご自分で諫めていただくほか、どうにも手立てがないとのことで……」
「そうか、わかった」
若様は、『水は扉の前に置いておけ』と、私たちに命令なさいました。
「脱水を起こされた時は、すぐに点滴を受けられるよう準備を整えておりますので!」
部屋の扉をお開けになった若様のお背中にそう叫びますと、『ああ』とおっしゃり、若様はあっという間に和室に入られました。
ですが、若様はよほど焦っていらしたのか、扉を閉めずに入ってしまわれ、中からお二方のお声が聞こえて参りまして……。
「雨花!」
「皇ぃ……」
涙声の雨花様が、若様を呼んだ次の瞬間、『ああっ!』と、艶めかし声が、中から響いて参りました。
一位様は急いで扉をお閉めになり、私の腕から経口補水液を取って、扉の前に置きました。
和室の中からは、雨花様の、その……明らかに、”行為”を伺えるような声が、結構なボリュームで漏れ聞こえて参りました。
一位様は、『戻りますよ!』と、私におっしゃると、雨花様のお部屋に戻る鶯張りの廊下を走りながら、『若様からお声掛けいただくまでは、何人たりとも和室に近づけてはなりません!』と、おっしゃいました。
ですので私たち側仕えは、和室に続く渡り廊下を、交代でお守りすることにしたのです。
「それにしても……若様のご到着、早かったですね」
若様が和室に入られてから、まもなく4時間……ほどになるでしょうか。
若様からは未だ何の連絡もなく、私たちは二人体制で、雨花様の部屋から和室に続く渡り廊下の見張りを、交代でしておりました。
私は途中、雨花様と若様の夕餉の準備などを致しましたが、それ以外は、なるべく、この見張りの番をすることを申し出ておりました。六位と共に……。
私のそのつぶやきに、その時も一緒におりました六位が、『まぁ、若様ですから』と、返事をしました。
確かに。うちの若様ですからね。
「しかし、窓から入っていらっしゃるとは驚きました」
私がそう申しますと、『それも若様ですからね』と、六位がふっと笑いました。
「何なら若は、今までも、玄関からより、あそこからいらっしゃることのほうが、多かったかもしれないですよ?」
六位がそんなことを言って、またふっと笑いました。
「え?まさか」
「若があそこから、雨花様のお部屋に入っていらしたのを見たの、今日が初めてじゃないですからね」
「そうでしたか」
言われてみれば、いつの間にか、若様が雨花様のお部屋にいらしたことがあった気が致します。
玄関から堂々とお会いになれない日も、お二方にはあったのでしょう。
「それにしても……どれほど効用が続くのですか?六位が作ったあの薬は……」
「個人差にもよりますが……もういい加減抜けてるはずですよ?」
「え?」
「そんなに長持ちしませんて。あんな一口かじった菓子からの摂取ですし。効き始めから、一時間……は、続かないと思うんですけどね」
若様が和室に入られてから、もうすでに四時間経っております。薬が効いているのは一時間として、残りの三時間は、薬は関係なく……ということでしょうか。
そこに、一位様が急いで走っていらっしゃいました。
「若様よりご連絡いただきました!夕餉をお運びください!」
「はい!」
私は急いで厨に向かい、お二方の夕餉を運ぶ準備を致しました。
「もう、よろしいのですか?」
一位様が、雨花様におそるおそるそう伺いますと、『見苦しい姿を見せませんでしたか?本当にすいません』と、雨花様が頭をお下げになりました。
雨花様は、若様と電話でお話したあとの記憶が曖昧だとおっしゃいます。
「いいえ!見苦しいだなど……しっかりしていらっしゃいました」
一位様がそうお答えになると、雨花様は安心したように微笑んで、『良かった』と、つぶやかれました。
「あ、皇の着物か洋服、うちにありませんでしたっけ?」
雨花様がそう聞いていらっしゃいました。
若様は今、和室の湯殿にいらっしゃるとのことで、お着替えに何かもってきてほしいと、雨花様がそうおっしゃいました。
「ございます。お着物がよろしいですか?」
一位様がそう返事をなさると、雨花様は、『着替え、着物がいい?』と、湯殿のほうに声を掛けました。すると、『そなたの好きに致せ』と、若様の声が聞こえてきました。
「あ、じゃあ……着物で」
雨花様が、ちょっと恥ずかしそうにそうおっしゃいました。
和室で夕餉を召し上がった若様と雨花様に、六位と胡桃と共に、改めて謝罪に伺いますと、『良い』と、若様がおっしゃいました。それに続いて雨花様も、『もう全然大丈夫なんで』と、笑ってくださいました。
お二方は夕餉のあと、和室から雨花様のお部屋に戻っていらっしゃいました。雨花様は、お部屋に置いてあった若様の靴を見て、『あれ?靴どうしたの?』と、若様におっしゃいました。
「窓から入って参ったゆえ」
「え?」
「窓から入ったほうが、早いと思うたゆえ」
「あ、そういえば、お前、めちゃくちゃ早かったね、帰ってくるの」
「旅客機で戻ったわけではないゆえ」
「は?」
「連絡を受けたあの場で準備出来る中で、一番早う帰れるもので帰って参った」
一番早く帰れるもの……それが何なのかはわかりませんが、さすがです!若様!
雨花様は、『ありがとう』と、少し照れたようにおっしゃって、若様の手を握られました。
「今日は、このままお泊りになられますか」
一位様が若様にそう伺いますと、『駒より、雨花が落ち着いたのち、一旦本丸に戻るよう連絡が参った』と、おっしゃいました。
「お仕事、大丈夫だったかな。とと様にご迷惑をおかけしたんじゃない?」
「余は、お館様について参っただけゆえ、途中退席しても何の問題もない。案ずるな」
若様はそうおっしゃって、雨花様の頭に軽く唇をつけました。
「……ん」
こうして、若様は本丸へとお戻りになり、このお薬誤飲事件は、私も六位も胡桃も、誰も何のお咎めも受けることなく、無事幕を閉じたのでございます。
と、胸をなでおろしておりましたが。
実は、この、雨花様お薬誤飲事件には後日談がございます。
事件翌日行われた、梓の丸の使用人会議にて、一位様から驚きの発表があったのです。
「若様より、褒美をいただきました」
会議の出席者は、みなザワザワ致しました。
若様より褒美が出た?昨日、あんな失態をおかしたばかりだというのに……。
「何に対しての褒美、なのですか?」
そうお伺いしたのですが、一位様はただニコリとなさって、『若様からは、心ばかりの礼だと……。ありがたくちょうだい致しましょう』とだけおっしゃいました。
「雨花様が卒業旅行にお出かけになる間、私共もみなで慰安旅行に行ったらどうかと、若様よりご提案いただきました。慰安旅行に行けるだけの金子(きんす)をいただいたのですが、みな、いかがですか?」
「みなで……とは?」
「梓の丸の使用人全員ですよ」
梓の丸の使用人全員で慰安旅行?!
「ちなみに何泊で?」
「しらつき旅館で、二、三泊は出来そうですよ」
使用人全員で、しらつき旅館で三泊の慰安旅行が出来るだけの金子が出たということですか?
しらつき旅館と言ったら、一泊ん十万のお部屋もある、高級旅館です。
一体若様から、どれだけの褒美をいただいたのか……。
会議ののち、一位様にこっそり、『使用人全員の旅費がまかなえるほどの褒美など、何があったのですか』と、お伺いしますと、『昨日の礼、とのことです。全く、おかしな薬で、どうなることかと心配しましたが……若様にとっては、それだけの褒美を出すくらいの価値がある一日だった、ということでしょう。雨花様にとってはどうかわかりませんが』と、おっしゃり、『その旨、皆にはご内密に』と、にこりとなさいました。
「では、褒美は雨花様が賜るべきものなのでは?」
「ご心配には及びませんよ。雨花様は、若様からの褒美など望んでいらっしゃらないでしょうから」
一位様はそうおっしゃって、ふふとお笑いになると、『怪我の功名と申しますか』と、そんなことをおっしゃりながら、雨花様のお部屋の方へと歩いていかれました。
あの若様が、あのような薬をお気に召したということでしょうか?
いえいえ、あの薬が……ではなく、あの薬を服用した雨花様がお気に召したということ、になるのでしょうか。
不能でいらっしゃるなどと噂された若様も、ご健全に成長なさっていらっしゃると、喜んでいいことなのか……。
私が雨花様にお運びした菓子で、このようなことになるとは……なんとも、なんとも複雑な気持ちがわいて参ります。
こうして、あの事件は、梓の丸が賜った、若様からの褒美の最高額を記録し、梓の丸が組織されて以来、初めての慰安旅行を実行させることになりました。
そのような結末にはなったわけですが……しかしもう二度と、あのような間違いは起こしたくありません。結果はどうあれ、私の不注意により、雨花様を苦しめたのは事実でございます。
若様はお喜びになられたかもしれませんが、雨花様がどう思われたかわかりませんし……。
「……」
雨花様にとっても、あの誤飲事件が、若様同様だったということなら……また一服盛るのも、やぶさかではございませんが……。
fin.
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