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藍田衣織の憂鬱③

「え?」 なんで、那乃葉がここにいんだ? そこに、かまちょとカフェの店長が一緒にやって来た。店長まで?カフェで怪我したのか? 「あいつ、容体は?!」 「大丈夫です。先ほどまで、色々検査をしていただいておりましたが、意識もはっきりしておりますし。ただ、足が少々……折れているかどうか、後で検査結果を聞いて参ります。怪我はそれくらいのようです」 「頭なんかは、大丈夫なんだな?」 「はい。受け答えもしっかりしておりますので大丈夫かと」 「そうか」 かまちょのその言葉を聞いて、心底安心した。 一緒にいたカフェの店長の話では、馬男と那乃葉が、一緒にカフェの駐車場の掃除をしていた時に事故にあったということだった。那乃葉が補足した内容をまとめると、車に轢かれそうになった那乃葉を庇った馬男が、車にぶつかったらしい。車の運転手が那乃葉に気づかなかったのが原因みたいだけど、那乃葉のほうも車に気づかなかったという。 「そっか。急に車が出て来たってことか」 「うん。音楽聴いてて、全然気づかなかったんだ」 「え?」 「え?」 「音楽聴いてたって……」 「うん。その事故でイヤホン一個、どっか飛んでいっちゃったんだ」 「……イヤホンしながら、掃除してたってこと?」 「うん。音楽聴きながらのほうが集中出来るでしょ?」 那乃葉は悪びれることなくそう言った。 確かに、そういうこともあるかもしれねぇけど!仕事中にイヤホンつけながらって……那乃葉がそんなことしてたせいで馬男は! 「でも、すごいよね。普通なら、自分が逃げるだけでいっぱいいっぱいになっちゃうよ。なのにボクを庇ってくれるなんて……うちの使用人じゃ、そんなこと絶対出来ないと思う。そういう訓練もしてるなんて、さすが衣織くんちの使用人だね」 那乃葉はニコニコしながら、馬男を褒めてるつもりなんだろうけど、おれはそれを聞いて、怒る気すら失せていた。 「あいつは使用人じゃないって言っただろ?僕の使用人じゃないんだ。訓練だって受けてない。那乃葉と同じ、ただの高校生だよ。それなのに、那乃葉を庇ってくれたんだ」 おれが狙ってる奴だからって……。 「え?でも藍田先輩は、衣織くんの身の周りの世話をさせてる人の弟だって……」 「身の周りの世話をさせてるんじゃない。してくれてるんだ。主従関係じゃない。僕の使用人が、僕の友達だからってことで那乃葉を守ったってわけじゃない。あいつは、あいつの意思で那乃葉を助けてくれたんだ」 「そう、なんだ」 「……あいつに、礼は言った?」 「え?」 おれは、那乃葉の腕を引いて、馬男の病室に入った。 「あ……」 思ってたよりボロボロの姿の馬男に、おれは言葉を失った。そこらじゅう包帯やらガーゼやらに覆われていて、点滴の管が繋がれている。 かまちょは、馬男んこと無事だなんて言ったけど、全然無事なんかじゃねぇじゃねぇか! 「お二人とも、いらしてくださったんですか」 馬男はこちらに視線を向けてそう言うと、体を起こそうとした。 「馬鹿っ!大人しく寝てろ!」 馬男の体を押さえつけると、馬男はふっと笑った。 「もっとちゃんと訓練しておけば良かったですね」 「那乃葉は無事だ。ありがとな」 おれがそう言うと、後ろで那乃葉が『ありがとう』と、小さくつぶやく声が聞こえて、そのあとスンッと鼻をすする音が聞こえた。 「え……」 振り向くと、那乃葉が泣いていた。 「那乃葉?」 「ボク……藍田先輩がこんなにひどいことになってるなんて、思ってなくて……ボクを庇ったせいで……こんな……」 「那乃葉……」 「宇賀さん、泣かないでください。私が勝手にしたことです。宇賀さんが罪悪感を持つようなことじゃないんです。あなたが無事で、本当に嬉しいです。あ……私はもう休ませていただきますので、宇賀さんを送って差し上げてはいかがでしょうか?」 馬男はおれにそう言って、小さく頷いた。 馬男がすげぇ何か……寂しそうに見えて、おれはしばらく、馬男のその提案に返事が出来なかった。 入り口に立っていたかまちょに、『三様』と呼ばれて促されるまで、おれは馬男の姿を見下ろしたまま、その場に立ち尽くしてた。 那乃葉と一緒に病院を出て歩き始めてすぐ、那乃葉は『怖かった』と、つぶやいた。 自分が轢かれそうになったのが怖かったのか、馬男の姿を見て怖かったのか……何が怖かったのかわかんねぇ。ボロボロな馬男の姿が頭にこびりついて、那乃葉に何が怖かったのか聞いてやることも出来ねぇで、ただ『そうだな』とだけ返事をした。 「藍田先輩は……衣織くんの……大事な人、なの?」 「え?」 「……」 何、言ってんだ?那乃葉? 「そう、なの?」 「何言って……」 「だからボクのこと、怒ってるんでしょう?」 「怒ってなんか……」 「怒ってるよ。ボクが、藍田先輩に怪我させたから、怒ってるんだよね」 「そうじゃない。那乃葉が怪我させたわけじゃないだろ?車が突っ込んできて……」 「ボクが車に気づかなかったから、藍田先輩に怪我させたって思ってるでしょ?」 「それも全部、どうにもならない事故だ。あいつも言ってたろ?那乃葉が罪悪感持つ必要ないって。僕も那乃葉を怒ってなんかない。ただ……知り合いのあんな姿、初めて見たから……思ったより、ショックで……」 「衣織くん……」 那乃葉は、そっとおれの手を握った。 「こんな時に言うことじゃないかもしれないけど……今言いたいから、言っておくね」 「ん?」 「ボク……衣織くんが、好き」 「……えっ?!」 「友達としてじゃなくて……わかるよね?」 「……」 那乃葉から、告白?! 「衣織くんが、うちの学校の、いろんな人と付き合ってるって話……聞いてる。何日か付き合うだけで、誰も本命にはなれないって。衣織くんには、すごく好きな人がいて、その人を忘れるために、そんな風にしてたみたいだって……。でも、ボクが来たあとは、誰とも付き合ってないみたいだって……ボク狙いなんじゃないか、なんて言われたりして……それが、本当だったら、いいなって思ってて……。ボクの周り、両親もなんだけど……そういう、男同士とか、偏見ないんだ。ボクも、男の人と、付き合ったことあるし。衣織くんのこと、結構前から……その、好き……だなって思ってた」 那乃葉は、おれの手を強く握った。 その手が、ちょっと震えてる。自由奔放なイメージの那乃葉が、こんなに緊張しながら、おれに好きだって言ってくれてることに驚いて、何の返事も出来ねぇで、ただ那乃葉を見下してた。 「どう、かな?」 そう聞いた那乃葉は、いつもみたいな上目遣いでこちらを見ることなく、おれの手を取ったまま、うなだれていた。その仕草が、本気度を表しているようで、おれまで緊張してきた。 ずっと、こいつを男嫁にする!って狙ってきた那乃葉のほうから、告白してきてくれたんだ。答えなんかいっこしかない。……はず、なのに。 おかしな動悸がして、頷けない。 那乃葉のこの告白に頷かなかったら、もうこの先、自力で他に男嫁を探せる気がしねぇ。男嫁を探せなかったら、今、おれの男嫁だと思われてる馬男が、自動的に男嫁になっちまう。いや、それはぜってぇ駄目だ。あいつの夢をおれの都合で奪うわけにはいかねぇ。 何をためらうことがあんだよ。そうだ。ここでただ頷けばいいだけじゃねぇか。 あ……いや!その前に、那乃葉は藍田の事情を、何にも知らねぇんだった。まずはそこから話さねぇと。 おれは、那乃葉を近くのベンチに座らせて、藍田の話、男嫁の話をした。おれと付き合うってことは、藍田の男嫁になるってことで、おれが当主んなったら、一緒に藍田を守ってもらうことになるんだって。 「衣織くんちがお金持ちなのは知ってたけど……本当にすごいおうちだったんだね」 那乃葉は、ちょっと眉をひそめて視線を落とした。 これで、さっきの告白はなしってことになるかもしんねぇ。そう思ったら、なんか少し……ホッとするとこもあって……。 「お嫁さんになるのにふさわしい人を探して、いろんな人と付き合ってたんだ?すごく好きだったって人以外、今まで誰も、衣織くんがお嫁さんにしたい人、いなかったって、こと?」 「ああ」 「……藍田先輩も?」 「あ……あいつは……」 那乃葉に、馬男が男嫁のフリをしてくれているんだって話をすると、那乃葉はものすごく安心した顔をして、いつもみてぇにおれに笑いかけた。 「そうだったんだ。だからなんか……そういう感じだったんだね」 そういう感じ? 「今、誰もいないなら……ボクじゃ、駄目かな?衣織くんの、お嫁さん」 「僕が当主になれなかったら、うちのしきたりにのっとって、女嫁をもらうことになる。そんな条件でも、いいのか?」 那乃葉は、少し考えたように黙ったあと、『うん』と頷いて、おれを見上げた。 「衣織くん、絶対当主になるって言ったでしょ?ボクも全力で応援する。それでも、駄目だった時のこと、今から心配しておいたほうがいいの?」 「……いや、絶対僕が当主になる」 「うん。あ!ボクのほうはね、特に問題ないと思う。両親と弟がいるんだけど、衣織くんちが男の人をお嫁さんにしないといけない家なんだって事情を話せば、みんな反対しないと思う」 「そうか。しっかり決まれば、ご家族に挨拶に行くから」 「うん」 「まだはっきり嫁にとは言えなくて申し訳ないけど……ありがとう、那乃葉」 おれは那乃葉の手を取って、『よろしくお願いします』と、頭を下げた。 那乃葉は『こちらこそ』と、笑った。 那乃葉に告白されて、正直……戸惑った。 那乃葉と一緒に藍田を守っていけるか考えっと……具体的な想像が出来なかったから。 でも、母ちゃんがいっつも言ってたのを思い出して考え直した。嫁んなったらそれらしくなるもんだから、本当に好きな人を嫁にもらいなって。父ちゃんだって、最初は全然当主らしくなかったけど、今じゃしっかりやってんだろって。 那乃葉と一緒に、しっかり藍田を守っていけるか今はわかんねぇ。でも、それが当然なんだ。想像出来ねぇのはきっと、誰を選んでもおんなじだろうから。 「……」 いや……雨花を男嫁にって張り切ってた時は、こんな怖くなることなかったっけ。雨花は、すーちゃんに認められただけあって、見た目はあんな華奢で綺麗なのに、中身はすげぇ強くって……腕っぷしが強いわけでもねぇのに、おれが大人数に囲まれてるって知って、一人で止めに入ってくれたり……おれのせいで嫌がらせされてたのに、おれんこと……いや、誰んことも責めたりしなかった。逆に、嫌がらせしたくなる気持ちもわかるって笑ってた。雨花は、そういう強さがある人なんだ。 ただ、ちょっとは弱いとこ見せてくれても良かったのにって思うけど……。でも、そんだけおれは、雨花にとって弱い存在で、雨花に守られてたのかもしんねぇ。 改めて、雨花ってすげぇなって思う。くっそ!すーちゃんめ!いい嫁見つけやがって! 那乃葉を嫁にもらった時、誰かにこんな風に悔しがられること、あんのかな。 こんな風に思うとか……自分の選択に自信が持てねぇからだ。 いや、那乃葉をまだよく知らねぇから、怖ぇんだ。そうだ。那乃葉のこと、もっとよく知っていきゃいい。震えながら告白してくれた那乃葉を信じよう。そう決めた。 たなぼたみてぇに那乃葉と付き合うことになったとかまちょに報告すると、これでもかってほど喜んでくれた。馬男には、かまちょからすぐに報告がいったみてぇで、事故翌日も見舞いに行くと、『おめでとうございます』と、にっこりされた。 『私が怪我をしたおかげで付き合うことになったんですよね?褒美、出ますか?』なんて笑ったあと、馬男はいつもよりよくしゃべった。 馬男は、那乃葉のいいところとか、那乃葉なら当主の嫁として見栄えがいいとか、那乃葉のことを持ち上げるような話ばっかしてたように思う。そんなにおれが那乃葉を嫁にしたことが嬉しいのかよって思うと、何かちょっと……腹立たしいっつうか。まぁ、馬男はこれで自由になれんだから、そりゃ喜ぶよなと思うと、馬男を自由にさせてやれてホッとするような……でもなんか、どっかモヤモヤするような、おかしな気分になったりもした。 馬男の足は、結局折れてはいなかった。いろんな検査の全ての結果が良好だったので、三泊四日の入院だけで、退院することが決まった。途中で里を出たとはいえ、元々忍びの鍛錬をしていたわけだし、咄嗟に受け身を取ったんだろうと、かまちょが安心した顔をしてた。 馬男が入院中、毎日見舞いに行ってたけど、馬男の病室には、いつも誰かしらが見舞いに来てた。 学校の同級生とか、カフェのバイト仲間とか……。 カフェのバイトで馬男が重宝がられてるって話は聞いてたけど、改めて、馬男の人望の厚さを見せつけられた気がして……何か、訳わかんねぇ感情がわいた。誇らしいような気持ちの裏に……腹立つっつぅか……何か、面白くねぇっつぅか。 ……自分でもよくわかんねぇ。 馬男の足は折れてないっつっても重度の捻挫で、しばらくは安静にしねぇといけねぇってことだった。 なのに、馬男が退院するって日、おれが夕方、学校から家に帰ると、すでに退院してきてた馬男が、夕飯を作っていた。 「ばっか!おめぇ、しばらく安静にしてろって言われたじゃねぇか!めしなんか作ってんじゃねぇよ!」 「あ!三様、おかえりなさい」 「あ、いや、おめぇこそ……おかえり」 「あ……はい。戻って参りました」 そう照れながら笑った馬男が、なんつぅか……かわ……うおっ!何?!いやいや!ねぇから!馬男が可愛い……とか、気のせい!気のせいだから! 「だから!おめぇは安静にしてろっつぅのに!」 焦りながら怒ると、馬男は「でももう出来てしまいました」と、笑った。 馬男に笑いかけられて……何、照れてんだ、おれ!いやいやいや、ないから。久しぶりに友達と会った時、最初ちょっとギクシャクするみてぇなアレだ、きっと。それそれ。 久しぶりの馬男の飯は、めちゃくちゃいいにおいがしてた。おれの好物の納豆汁もあったし。おやつにと思って作ったんです……なんて言いながら、馬男がおれに差し出したのは、蒸しパンだった。 蒸しパンを割って出てきたずんだあんを見て、つい『うわっ!』と声を上げると、馬男は、『里の母が、ずんだあんを送ってきてくれたので蒸しパンにしたんです。これ、お好きですか?』と、笑った。 いやもう、好きなんてもんじゃねぇし。当主の嫁……(はん)様として、毎日忙しくしてた母ちゃんが、休みの日に作ってくれたおやつの中で、ずば抜けてこれが好きだった。 口にいれた蒸しパンは、母ちゃんが作った蒸しパンとそっくりで、おれがポツリとそう言うと、ちょうど帰って来たかまちょが、『そりゃそうですよ』と、笑いだした。 かまちょになんでか聞くと、かまちょと馬男の母ちゃんは、おれの母ちゃんの、嫁入り支度の教育係だったという。嫁入り支度の教育ってのは、家事全般を教え込まれるらしい。もちろん料理もその一つだ。 それを聞いて、馬男も驚いていた。 うちの母ちゃんの料理は、かまちょと馬男の母ちゃんから教わったもんだったんだ。馬男の料理は、馬男の母ちゃん仕込みのもんだから、うちの母ちゃんと馬男の料理の味が同じになって当然だと、かまちょが笑った。 いや、かまちょは全然料理へたくそじゃねぇか!と言うと、馬男が、『兄は、男子厨房に入るべからずって言われて育ったんです』と、笑った。 馬男は一人暮らしをすると決まった時、馬男の母ちゃんから、家事一切を徹底的に仕込まれたという。馬男は、家事は理科と通じるところがあって楽しいので、すぐに覚えたと笑った。 家事が理科と通じてる?よくわかんねぇけど、頭のいいやつは何でも器用にこなすってことだけはよくわかった。 しっかし、馬男の料理が、母ちゃんと同じルーツだったとは。そりゃおれが美味いと思うはずだよな。 そこから昔話が始まって、おれと馬男は小さい頃、同じ山で遊んでたことが判明した。山で採った木の実の話とか、虫捕りしたこととか、静生と寿恩と一緒に、秘密基地作った話とか……。小さい頃会ってたら、一緒に秘密基地作れたのになんて、とにかく話が盛り上がった。 夕飯を食べたあと、かまちょが改めて、おれと那乃葉がうまくいって良かったという話をすると、馬男が何かを思い出したように、『あ!』と言って、自分の部屋から分厚い封筒を持って来た。差し出された封筒の中には、結構な札束が入っていた。 「これ……」 それは、馬男が初めてここに来た日、かまちょが馬男に支払った報酬だろうと、すぐにわかった。 「私の存在が必要なくなった時、三様にお返ししようと思っていました。お金を先に頂いたと言っておけば、私を追い返すことはないだろうと、兄から渡されておりましたので」 かまちょおおおお!お前の作戦だったのか!くそ!まんまとかまちょの思い通りになってたと思うと、無性に腹立つ! でも、この金は馬男にやった金だ。いくらかまちょの腹立つ作戦だったとしても、一回渡した金を受け取るわけにはいかねぇ。そんだけのこと、馬男はおれにしてきてくれてんだし。 「これは、おめぇの金だ。おめぇがいたから助かったんだ。報酬としてきっかりもらっとけ」 「いいえ。このお金は、三様が大事なかたのために貯めたものです。夏……三様がどれだけ必死に働いてこのお金を貯めたのか、私も見ておりましたので知っております。そんな大事なお金を、私が使うことは出来ません。私は、兄に恩を返したくてここに来ました。兄の役に立つことが出来て満足しております。このお金を、私が持っている意味はなくなりました。お返し致します」 「……んじゃ、こうすっか」 「え?」 「おめぇが怪我したのもいい機会だ。ここで全部バイト辞めろ」 「えっ?」 「おめぇが頭いいのは、よくわかってる。だからって受験勉強しねぇでいいわけねぇだろ?この機会にもうバイトはやめて、この金、おめぇのバイト代として生活費に充てろ。男嫁のフリはしなくて良くなったっつっても、この家から出ていくとか言うなよ?おめぇの飯がねぇと、またかまちょと二人でまずい飯食うことになっからな。その報酬の先払いだ」 「置いていただけるのはありがたいのですが、このお金をいただくわけには……」 「いや、逆にわりぃな。おめぇにバイトやめさせて、その金も好きに使っていいって言えたらかっこいいんだけどな。おめぇへの褒美は、当主になったあと改めてやっから。今はその金、生活費にしてもらって、おめぇはとにかくバイトやめて受験勉強始めろ。うちにいたから希望の大学入れなかったなんて言われちゃ困っからな」 そう言って封筒を押し返すと、馬男はちょっと泣きそうな顔をしたあと、『ありがとうございます』と、金の入った封筒を抱えて部屋に入っちまった。 かまちょが追っかけるように部屋に入っていったから聞き耳たてっと、馬男が、『こんな大事なお金を……ありがたいです』と言ってる声が聞こえた。気付かれねぇように中を覗くと、馬男はかまちょに肩を抱かれて、金が入った封筒を抱えて、泣いてるみてぇだった。 「……」 泣くほど感激したってことか?こんなことで……。いや、本来ならあいつが好きに使っていい金を、生活費にしろなんて、最低なこと言ってっと思うけど……。 「……」 それでも馬男は、ありがたいって、泣くほど喜んでる。 おれは……無性に恥ずかしくなった。 あの金んことで、馬男を散々心ん中で罵倒してきたことを、めちゃくちゃ悔やんだ。 この日から、馬男との関係はさらに変わった。 馬男の正体がわかってから良好な関係ではあったけんど、さらに良好になったと思う。 話せば話すほど、馬男ってのはなんつうか……今までのイメージとは違うことがわかっていった。 しっかり者なのかと思ってた馬男は、実は末っ子らしい性格みてぇで、キウイとか食えないもんはハッキリ言うし、好きなもんは遠慮しねぇで多めに食う。苦手なもんも結構あって、そういうの知るたんび、馬男が普通の高校生なんだなって実感して、おれはなんだか嬉しくなった。 とりわけ馬男は雷が苦手みてぇだ。夏が近づくにつれて、雷が多くなるから夏は憂鬱だと眉を下げる様は、ちょっと……可愛いとか、思ったりした。 いやいやいや!馬男を可愛いとか……いや、間違っても馬男んこと可愛いとか思ったら駄目だろ。かまちょにヤられる!那乃葉を嫁にって決めたんだし。他のやつ、可愛いとか思っちゃ駄目だろうが! その那乃葉といえば……付き合うことんなってすぐ、おれと那乃葉の関係が、学校中に知れ渡った。 それっつぅのも、どうやら那乃葉が自分で言いふらしているかららしい。 那乃葉は、学校ではいつも一緒にいようとして、他の奴らが話し掛けてくると、あからさまに不機嫌になった。生徒会室にも、役員でもねぇのにずっと居座ったり……。そんだけおれのことが好きってことで、かわいいわがままの部類ってこと、なのか?父ちゃんがよく言ってた。嫁のかわいいわがままくらい聞いてやるのが男ってもんだって。 でも、そんな状態がしばらく続くと、周りからヤイヤイ言われるようんなった。おれに何かを頼もうとしても、那乃葉に邪魔されて頼めないとか。とにかく那乃葉がブロックして、誰もおれに近づけないでいるって。 いっつもおれと一緒にいたがるのはいいとして、助けてくれっておれを頼ろうとしてる奴を近付けさせないようにしてるってどういうことだ?それはかわいいわがままの部類には入んねぇだろ? 確かに最近、困ってるって言ってくる奴、いねぇなって思ってた。 那乃葉に直接確認したら、『断ったっていうか、何で衣織くんが助けないといけないの?って聞いただけ』とか、悪びれることなくそう言われて、おれは心の底からガッカリした。 「困ってる奴助けるのに、理由っている?」 「え?」 「僕が助けないといけない理由はないかもしれないけど、助けちゃいけないって理由もないだろ。だったら僕は、余計なお世話でも、困ってるって言ってきてくれた奴に手を差し伸べられる人間でいたい」 そう言うと那乃葉は、素直に『そっか。ごめんなさい』と謝った。『衣織くんはボクの恋人なんだから、何で他の人のこと助けないといけないわけ?って、ちょっと……妬いちゃったのかも』と、笑った。 そう言われて、ふと雨花の顔が浮かんだ。 雨花なら喜んで、友達助けに行けって言っただろうなって。 那乃葉は、知れば知るほど雨花とは全然違ぇ。見た目も、細いってとこ以外似てねぇし。それでも那乃葉は美人だと思うけど。 でも、性格的には全然違った。 雨花は責任感があって、めんどくせぇ会計の仕事も、嫌な顔しねぇでしっかりやってた。たまにちょっと抜けてるとこはあったけど、それもちゃんと自分でカバーしてたし。 おれはそんな雨花を、すげぇ尊敬してたんだ。 おれは、守ってやりたくなるような、はかない系美人が好きなんだろうなって自分で思ってたけど、そういう見た目なら何でもいいわけじゃなかったみてぇだ。 おれが雨花に惹かれたのは、最初は見た目だったけど……あんなに好きんなったのは、中身のかっこよさのほう、だったのかもしんねぇ。今更そういう大事なとこ気づくとか……。 那乃葉のわがままは可愛いし、出来ないって甘えられっと、やってやろうと思う。守ってやりてぇとは思うけど……そんな那乃葉と二人で藍田を守っていけるイメージが、那乃葉を随分知った今も、全然湧いてこねぇ。 那乃葉のことをどうしたもんかと悩んでいるうちに、季節はもう完全に夏になっていた。 「いってらっしゃいませ」 「ああ」 にっこりおれを送り出す馬男から弁当を受け取って、おれはバイトに向かった。 今日は暑くなるからって、冷やしうどん弁当だって言ってた。翔の里から送られてきた梅干し、たくさん入れてあるって言ってたっけ。あいつんちの薄塩味の梅干し、うめぇんだよなぁ。バイトを全部やめて、受験勉強に備えるようんなった馬男は、それでも家事は手を抜かずにやってくれてた。 前よりいろんな料理が出てくるようんなって、おれは今、確実に馬男に胃袋を握られてっと思う。ホントうめぇんだ、馬男の飯。 だからってわけじゃねぇけど……もうすぐ選抜会議だっつぅのに、まだおれは、男嫁を、馬男から那乃葉に交代するって本家に報告出来ねぇでいた。 那乃葉はかわいい。かわいいけど……あああああ……かわいいけど!なんかやっぱ、ピンとこねぇ。 那乃葉をこのまま嫁にもらったら、もう馬男の飯は食えなくなって……いや、飯は作りに来てもらえばいいけど……おれと馬男は、今とは全然違った関係に……いや、今、馬男んことは関係ねぇし。 ……全然違った関係?うち帰っと、何かしら美味そうなもんが作られてて、おかえりなさいって笑って出迎える馬男は、いなくなるって、ことだ。 なんつぅか……馬男がうちん中にいるってだけで、変な安心感があんだよな。 今、那乃葉を手放したら、馬男がおれの男嫁になるしかなくなって……。いや!そんだけは駄目だ!いや、でも馬男が嫁なら……こんな、悩んでねぇ、かも。 馬男は誰からも好かれてて、頼りにされてて、人んこと良く見てて、負担にならねぇように人に手ぇ貸せて、何よりあいつといると……落ち着く。 あいつ、なんつぅかホント、いっつも機嫌良いし。逆におれが機嫌悪くても、無駄に機嫌取ろうとしてこねぇのがまた、なんつぅか、気ぃ使われてねぇ感じでラクなんだ。あいつの前なら、不機嫌になっても大丈夫だよなって、安心してそのまんまさらけ出せた。 馬男に甘えてんのか?おれ。そういや、おれは雨花にも甘えてた気ぃする。 馬男が嫁なら……。 いや!何言ってんだ!馬男だぞ?馬男だけは駄目だ!雨花を嫁にもらうより、ない!かまちょにヤられる!何より、馬男を嫁にするってことは、イケメン枠の馬男を抱くってことで……。 「……やべぇ」 イケメン抱く妄想は、思ったより、はかどった。 想像ん中の馬男は、抱かれててもイケメンだったけど、イケメンを組み敷くってのも、それはそれで興奮……って!何、瑠偉先輩みてぇなこと言ってんだ!おれ! んなの、想像出来たら駄目だろうが! 「……ねぇよ」 そう。ねぇんだよ。 大学教授にでもなって、普通に女と結婚すんのが、あいつの幸せなんだから。 おれの誕生日、7月31日まで、あと一週間ってとこだった。 学校は夏休みに入ってたけど、バイトが一緒の那乃葉とは、三日と開けずに顔を合わせてた。 那乃葉の親は、一足先にアメリカに帰ったそうだけど、那乃葉は選抜会議に出るためにっつって、こっちに残ってくれていた。 一人暮らしだから気兼ねしないでと、何度か家に誘われたけど、なんか……踏ん切りつかねぇで、やんわり断り続けてた。 付き合ってる奴に家に呼ばれて、二人っきりだっつぅのに、何も手ぇ出さねぇわけにはいかねぇと思ったから。 筆おろしは、儀式で済んでる。定期的に(ねや)の練習だと称して、男も女も抱かされてきた。だけどそれは練習であって、自分から望んで誰かを抱いたことは、生まれてこのかた一度もねぇ。 そんなんだから、那乃葉と付き合ってから、まだキスすらしていなかった。当主になるって決まんねぇことには、那乃葉を嫁に出来るかわかんねぇから手は出さねぇ……なんて言い訳して、那乃葉におれから触れてなかった。 本当は……その気になんねぇからなんだけど。 那乃葉は美人だ。間違いなく美人、なんだけど……。 すげぇ美人だと思うのに、ちっともそんな気になんねぇとか、自分でも訳わかんねぇよ。馬男とのアレコレは想像出来るっつぅのに……。肝心の那乃葉とのアレソレは、てんでヤる気起きねぇとか……。いや、閨の練習で抱いた奴らなんか、全く知らねぇのにヤれたんだから、やろうと思えば出来っとは思うけど……肝心のヤル気が起きねぇとか……。 でも、那乃葉を逃していいのか?おれ!那乃葉を逃せば馬男に迷惑かかる、かもしんねぇ。馬男を困らせる?それは……したくねぇ。 悩みながらバイトからうちに帰っと、馬男がいつもとおんなじように、にこやかにおれを出迎えた。 「おかえりなさい。どうかしましたか?」 「んん?……那乃葉と一緒に、藍田守っていけんのかなって、心配んなって」 「え?大丈夫ですよ」 「は?何でわかんだよ」 「大事な方の大事な物は、自分も大事にしたいと思いますよね。大事なものは守りたいと思うじゃないですか」 「おめぇはそうかもしんねぇけんど……」 「誰でもそうじゃないんですか?宇賀さんに一族のことを知ってもらって、好きになってもらえれば、宇賀さんも一族を大事にしたいと思ってくださるはずですよ」 そう言って笑った馬男の顔を見ながら、馬男に大事にされる奴を想像して、何か、想像上のそいつに腹が立った。 「おめぇ……」 「はい?」 「そういう奴、いんのか?」 「え?」 「大事な、奴」 「……はい」 馬男に、大事な奴?! そんなこと、考えもしなかった。おれの嫁になるなんて言ってる奴に、大事な相手がいたなんて……。 馬男に、大事に思われてる奴が、いる……。 モヤモヤしてしょうがねぇから、その夜は、走り込みに出掛けた。 馬男に大事に思われてる奴がいるなんて……。いや、それより、そんなんで、こんなモヤモヤしてんのがおかしいだろうが!おれ! 馬男はかまちょみてぇなもんだから、なんつぅか、兄ちゃんのこと、とられたみてぇな気持ち、なんかな?多分。 ブラコンか!おれ!?いや、ブラコンじゃねぇわ!静生が嫁決めたって聞いてもなんとも思わなかったし!兄ちゃんとられてモヤモヤすっとか、気持ち悪ぃわ!いや、かまちょは静生より長く一緒にいるから、兄ちゃん以上に兄ちゃんみてぇなもんだけんど……。そうか、ブラコンじゃなくて、影コンプレックスか?そうだ!そうだ!そうじゃなきゃおかしいだろ!馬男に大事な奴いるって聞いて、モヤモヤすっとか!影コンだから、モヤモヤすんだな。そうだ!そうだ! ……とにかく!馬男だけは、そんな……嫁に、とか思ったらぜってぇ駄目だ! 7月31日は、ものすごい快晴だった。 朝起きて部屋を出ていくと、かまちょと馬男が三つ指ついてリビングにいて、『三様、17歳のお誕生日、誠におめでとうございます』と、深々おれに頭を下げた。 かまちょは、おれの誕生日祝いの贈り物チェックに本家に行くといって、朝早くから出かけて行っちまって、おれはいつものように馬男が作った、でもいつもよりちょっと豪華な朝飯食って、バイトに出掛ける準備をした。 おれが出掛けるのを玄関まで見送りに来た馬男が、『今夜はごちそうです。すでに準備はしてありますので』なんて言うから、おれは出かける前から、今夜帰ってくるのが楽しみんなった。 「本当に宇賀さんとはお会いにならないんですか?」 「今日が誕生日っつぅのも言ってねぇし。変に気ぃ使わせんのも嫌だしな」 「そうですか」 バイトしに家を出てすぐ、財布忘れたのに気付いて家に戻っと、廊下側の開いてた窓から、中にいる馬男の姿が見えた。 何かフンフン歌いながら、いつもより上機嫌に何かを混ぜている。多分あれ、おれの大好きなずんだの蒸しパン作ってんだろ?嬉しそうに、おれの誕生日の料理を作る馬男を見て、何か……すげぇ照れた。 そのまま見てっと馬男は、台所の吊戸棚から、蒸し器を出そうと手を伸ばした。でも、蒸し器は馬男が手を伸ばしたくらいじゃ届かない高い場所に置いてある。 おれは急いで部屋に入って、馬男の後ろから手ぇ伸ばして、蒸し器を取ってやった。 「あ。え?出掛けてなかったんですか?ありがとうございます」 おれのすぐ目の前で、馬男はびっくりした顔からすぐににっこりして、そのあと赤くなって、うつむいた。 「ほら、蒸し器。ずんだの蒸しパンか?」 「あ……内緒で作ろうと思ってたんですけど」 「おめぇが言う"ごちそう"なら、ずんだの蒸しパンはぜってぇあると思ってた」 そう言って笑うと、『わかってました?』と、馬男もおかしそうに笑った。 「おめぇ、思ったよりちびっこかったんだな」 「は?」 蒸し器を受け取りながらおれを見上げた馬男が、『私は小さいほうではありません。三様の身長が高過ぎるんです』と、ちょっと口を尖らせながら睨んできた顔が、なんつぅか、可愛……可愛い?!ここんとこ、馬男を可愛いと思う頻度が高ぇ。 最初から、馬男んことはイケメンだと思ってた。けど、”可愛い”からは程遠かった、はず。 馬男は、イケメンで男らしいってイメージで……でもあいつ、中身はてんで末っ子らしい性格だけど。そういう中身を知った頃から、どうにも馬男が可愛く見えることが多くなった気ぃする。 ……やべぇ。 こうやって目の前で改めて見っと、思ってたより腕なんか細ぇような……。 そう思った時には、馬男の腕を掴んでた。 「三様?」 「あ、いや、おめぇ、思ったより細ぇな」 「な、あ、三様がガッシリなさってるだけです!」 馬男は、『蒸し器ありがとうございます!』と、また少し口を尖らせて、赤い顔で礼を言った。その顔がやっぱり何か可愛っ……いや!うわ……やべぇ。 焦ったまま財布を掴んで、おれはまた馬男に『今度こそ行ってくる!』と言って、家を出た。 後ろから『今度こそいってらっしゃいませ!』と声が聞こえたので振り向くと、気づいた馬男が、笑って頭を下げた。 "今度こそ"を被せてきやがったことに吹き出して、『馬っ鹿、おめぇ、笑わせんじゃねぇよ。出がけに鼻水出たじゃねぇか』と、自分の鼻を触ると、『大丈夫です。鼻水垂らしててもかっこいいですよ』と、笑いながら近付いて来て、おれにティッシュを渡した。 「んなわけあっか。どこも大丈夫じゃねぇわ。じゃ、行ってくっから」 「はい。いってらっしゃいませ」 馬男が手を出すから、鼻水拭いたティッシュを渡して、おれはアパートを出た。 普通に鼻水拭いたティッシュ、馬男に渡しちまったけど、普通は嫌がるよな。あいつが"おかんだくん"なんて呼ばれてんの、すげぇ納得だわ。 「……」 さっき、馬男のすぐ後ろに立った時、フワッと本家みてぇな懐かしいにおいがした。馬男はいつも懐かしいにおいがする。馬男とは、育った環境が似てるからか、あいつといると、においだけじゃなくて、何か懐かしい感じがして無性に……なんつぅか、ホッとすんだ。 ……いや!だからって、ねぇから!あいつだけは本当に駄目だ! カフェのバイトを終わらせて外に出ると、出口の近くに那乃葉が立っていた。 「バイト、終わった?」 「え?どした?」 今日、那乃葉はバイトじゃなかったはずだ。 「衣織くんを待ってた」 「え?」 「今日、誕生日でしょ?」 「あ、え?」 「何で言ってくれなかったの?」 「いや、気ぃ使わせるかと思って」 「だと思った。付き合ってるんだよね?ボクたち。言ってくれるの待ってたけど、言ってくれないから、サプライズで来ちゃった。ボクに衣織くんを祝わせて」 まさか那乃葉が待ってると思わなかった。おれの誕生日なんて知らないと思ってたのに……。いつから待ってたんだ?今日残業したから、結構待ってたはずだ。店にも入んねぇで、ここでずっと待ってたのか? 「ボクのうちで、祝いたいんだけどいい?」 そう言われて、すぐに断れなかった。 那乃葉を嫁にしていいのか、今もずっと悩んでる。なのに、ハッキリ断ることも出来ねぇで、ここまでズルズルきちまって……。 はっきり返事をしないおれのシャツを、那乃葉がギュッと掴んだ。 そん時、ごちそう作って待ってるって笑ってた馬男の顔が、頭に浮かんだ。 「あ……ちょっと、一回うち戻って着替えたいんだけど、いい?」 那乃葉んちに行く行かないはおいといて、とにかく汗臭ぇし。 「うん。わかった。ボクも衣織くんちまで一緒に行っていい?」 「あ、うん」 うちに連れて行くのも、何だか気分的に重いけど、那乃葉をここに置いていくことも出来ねぇ。 那乃葉を連れてうちに帰ると、いつもと同じように、馬男が『おかえりなさい』と、にっこりドアを開けた。馬男は、那乃葉の姿を見るや驚いた顔んなって、『ご一緒だったんですか。こんばんは』と、那乃葉に一礼した。 「衣織くん、誕生日なので、お祝いしたくて。今夜、衣織くんのこと、うちに泊まらせていい?」 「は?泊まり?!」 馬男より先に、おれが驚いちまった。 泊まりって……。 「え?駄目?誕生日って、恋人といたいとか思わない?」 「あ……」 おれが返事に困っていると、馬男が『そうですよね。いってらっしゃいませ』と、にっこり笑った。 「でも、せっかく作ってくれた料理……」 「いえ!大したものは作っておりません。お気になさらずいってらっしゃいませ」 馬男は那乃葉に、『今夜はのんびりさせていただきます』と、頭を下げた。 かまちょはまだ本家から帰って来てねぇらしい。いつ帰ってくっかわかんねぇのに、夜、こいつ一人にして、あの引っ越しの日みてぇに襲われたら……。 「あ、那乃葉。こいつ、夜一人になるかもしれないから、泊まりは……」 「いえ!もうすぐ兄が帰って来るでしょうし、私なら大丈夫ですから。三様はお早くお支度なさってください」 馬男は、おれの服を適当にカバンに詰めて、追い出すみてぇに、おれと那乃葉を家から押し出した。 「じゃあ、何か美味しい物、買っていこうか」 アパートから出て少し歩いたところで那乃葉にそう言われて、だったら馬男が作った飯、持っていこうと思い立った。 『今夜、那乃葉と会うとは思わなかったから、うちで祝い膳を作ってくれてたみたいなんだ。何か買っていくつもりなら、うちの祝い膳を持って行かないか?』と那乃葉に言うと、そういうことならそうしようと頷いてくれた。 ってことで、その場に那乃葉を待たせて、おれはアパートに急いで戻った。 戻ると、アパートの廊下側にある台所の小さい窓から、今朝とおんなじように馬男の背中が見えてた。また今朝みてぇに鼻歌でも歌ってんのかと思って窓に近付くと、馬男はうつむいて、背中を震わせてた。 え?泣いてる? 震えてる馬男の後ろ姿を見た途端、心臓掴まれたみてぇに、ギュウギュウ痛くなった。 馬男の震えてる背中を、今すぐ抱きしめ……って!いや!何、言ってんだ!おれ! 「あれ?何も持ってこなかったの?」 馬男を抱きしめてぇなんて思った自分に驚いて、家に入れねぇまま、那乃葉のもとに走って来ちまってた。 「あ、やっぱ、いいかなって思って」 「そっか。じゃあ、何か美味しい物、買っていこうか?」 「ああ」 あんな馬男んとこに戻れるわけねぇ。 泣いてる馬男んとこ戻っちまったら、自分が何すっかわかんねぇと思うと、怖くて戻れなかった。 那乃葉のうちはでかいマンションで、那乃葉が帰り道で買ったくれた飯は、どれも洒落てて美味かったけど……一口食うごとに、馬男が作る素朴な飯ばっか頭に浮かんできた。 っつか、何、泣いてんだよ、あいつ。 なんで……。 せっかくご馳走作ったのに、おれが那乃葉んち泊まるとか言ったからか? ……いや、んなことで泣くわけねぇか。 どっか痛かった、とかか? ……いや、痛みで泣いてるって感じには見えなかった。 じゃあ、何で……。 「衣織くん?」 「あ、ん?」 「どうしたの?何回も呼んだのに」 「あ、ごめん。何?」 「お風呂入ってきたら?」 「あ……」 「ね?」 那乃葉に、風呂場に押されて連れて行かれた。タオルはここ、なんて説明を受けて、洗面所に一人になったあと、携帯電話が光ってるのに気付いて見てみると、かまちょからメッセージが送られてきてた。 今夜は遅くなりそうだと書いてある。 かまちょが遅くなるとしたら、やっぱり馬男は遅くまで一人になっちまう。あいつ、襲われたことあっから、怖がって、そんでさっきも泣いてたんじゃねぇの? おれは、風呂に入らず、リビングに戻った。 「え?どうしたの?」 「那乃葉、悪い。今夜は帰る」 「え?」 「おれの世話係が帰るの遅くなるって連絡来たんだ。それまで、あいつ一人にさせておくの、やっぱり心配だから」 「あいつって、藍田先輩のこと?」 「ああ」 「衣織くん……やっぱり藍田先輩のこと、好きなの?」 「いや、そういう問題じゃなくて……」 「先輩が一人で心配って言うけど……ボクだって今、一人でここに住んでるんだけど」 「あ……いや、でもあいつは、駄目なんだ」 「駄目って何が?だって今夜は!ボク、衣織くんと……」 那乃葉はおれの前に立つと、『結婚しないかもしれないから、はっきりするまで何もしないって衣織くんは言ってたけど、そんなの気にしなくていいから』と言って、目を閉じた。 キス、するところなのかもしんねぇけど……やっぱ、駄目だ!おれ。 「ごめん!那乃葉!」 おれは謝りながら、逃げるようにうちに帰った。 走って家に戻って、急いでドアを開けっと、部屋の中は真っ暗で、中から『兄さん?』と、声が聞こえてきた。 おれをかまちょと勘違いしてるらしい。そうだよな。おれは那乃葉んちにいるはずだもんな。 「電気も点けねぇで何してんだ」 「三様?!」 真っ暗な部屋ん中、声のするかまちょの部屋に向かった。やっぱそっちの部屋も真っ暗だったけど、馬男がうずくまってるのはわかった。 「今夜は、宇賀さんのお宅に泊まるんですよね?何か忘れ物ですか?」 「かまちょが遅くなるっつぅから、おめぇがまた襲われっかもしれねぇと思って……」 「そんな!せっかく宇賀さんが誘ってくださったのに、私のせいで帰ってくるなど……宇賀さんのお宅に戻ってください」 暗さに、目が慣れていく。 目の前の馬男は、心配そうな顔でおれのことを見上げてた。 多分、あれからずっと、泣いてたんじゃねぇかと思う。暗い中でも、馬男の目がクシャクシャしてるのがわかったから。 馬男の目尻に手ぇ伸ばすと、馬男は驚いたみてぇに、体を震わせた。 「泣いてたのか?」 「泣いてなど……」 馬男はふいっと、顔を反らした。 「怖かったのか?」 「泣いてませんし、怖くもありません。私は大丈夫ですから、宇賀さんのところにお早くお戻りください」 「本家のほうじゃ、おめぇがおれの男嫁ってことになってんだ。おめぇ一人でいっと、襲われっかもしんねぇから」 「私が襲われるかもなんて気にすることないんです。三様の本当の男嫁様は、宇賀さんなんですから。私が襲われようが、気になさることは……」 「おれだって那乃葉んこと気にしててぇよ!でもおめぇんことのが気になんだからしょうがねぇだろっ!」 「え?」 壁に追い込んだ馬男に、目を腫らした顔で見上げられて、衝動的に、馬男に、キス、した。 「へ?!」 おかしな声を上げた馬男は、おれのシャツを握って、口を抑えてガクガク震え始めた。 「あ、え?どした?」 いや、どした?は、おれのほうだ。何、馬男にキスとかしてんだ?!いや、だって……何か、吸い込まれちまって……。いや、今はそれどころじゃねぇ!尋常じゃねぇくれぇ、馬男はガクガク震えてる。 「わりぃ。そんなキモかったか」 そう言って頭を下げると、馬男はさらにビクッと震えて、『違いますっ!気持ち悪いなんて!全然!そっ、そうじゃなくて……あの!あの……すいません。は、初めて……で』と、すげぇ小さい声で、そう言った。 「は?」 「生まれて、初めて……で、驚いて……」 生まれて初めてキスして驚いて、それってことか? ……まじか。 まだガクガクしている馬男を、おれはもう、どうしようもなくそうしたくて、ギュウっと抱きしめた。 もういい加減、認める。おれはこいつに、惹かれてんだ。 ここんとこ、自分からキスしてぇなんて思ったヤツ、こいつ以外一人もいねぇ。 こいつだけは駄目だって思ってたのに……こいつ以外いねぇとか。もう笑うしかねぇ。 女にモテまくりそうなこんな見た目してんのに、生まれて初めてキスして震えてっとか……どんだけギャップ萌えさせんだよ!くそっ! あああああ!もう、認める!こいつ、マジ可愛いわ!くっそ! 「おめぇ、気持ち悪くなかったって言ったよな?」 「え?」 「おれにキスされて、気持ち悪くなかったんだよな?」 「え……あ、気持ち悪いなんて、そんな……」 「ま、今はそんでいっか」 「え?」 馬男がおれんこと、何とも思ってなくてもいい。これからぜってぇ落としてみせっし。 こうなりゃ、こいつの初めてをもらっちまったから、責任取るわってことで、丸くおさまんねぇかな? ……おさまんねぇか。 かまちょはぜってぇ反対だよな。 「おめぇに手ぇ出したなんて知られたら、かまちょにヤられんな、おれ」 「え?!」 「どうせヤられんなら、もう一回させろ」 「は?」 心配そうにおれを見上げた馬男……いや、(ゆう)の唇に、おれはもう一回、キスをした。

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