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藍田衣織の憂鬱④

その時、アパートの廊下を歩く足音が聞こえた。おわっ!これ、かまちょだろ?! (ゆう)もわかったようで、二人で一斉に体を離した。 「あれ?真っ暗なままで……誰もいないんですか?」 かまちょが電気を点けた時、見えた邑の顔は真っ赤で、まだ小さく震えているようだった。かまちょがいなきゃ、あのまんま押し倒してたかもしんねぇ。 かまちょはすぐに邑がおかしいことに気が付いて、『どうした?』と、邑に近付いた。 邑がハッキリ返事をしねぇから、かまちょはおれに、『何があったんですか?』と、聞いてきた。 かまちょにヤられんの、今夜かもしんねぇ。でももう、邑以外の奴は考えらんねぇ。 「話がある」 「はい?」 狭いリビングに向かい合って座ったかまちょに、おれはガバッと頭を下げた。 「三様?」 「邑を娶る」 そう言うと、先に驚いたのは邑だった。 「え?!何を……宇賀さんは?」 「さっき言っただろ。おめぇのほうが気になって帰って来たって。そういうことだ」 「そんな!私など……」 「うるせぇ。もう決めた。おめぇを娶る」 もう引っ込みはつかねぇ。目の前の二人から視線をそらすと、かまちょが大きく息を吐いたあと、『三様』と、普段と変わらない調子でおれを呼んだ。 「今日一日で何があったのかわかりませんが、那乃葉様がお気に召さないのでしたら、私が別の誰かを探して参ります。ですから、邑でいいなどと諦めないでください」 かまちょがそんなことを言うから、おれは腹が立って、『ちげぇよ!』と怒鳴った。 那乃葉が駄目だから、諦めて邑を娶ろうと思ったんじゃねぇ。邑がいいから、邑を娶りてぇって言ったんだ。 「諦めたんじゃねぇ。邑がいいって言ってんだ」 「そんな!そんな、いけません!私など!」 「三様、この通り邑は嫌だと申しております。邑には、好きな勉学で食っていって欲しいと話しましたよね?藍田の(はん)様になれば、その夢は叶わないでしょう。幼い頃より家族と離れてまで、勉学に励んできた邑の努力を、三様の思いつきで無駄になさるおつもりですか?何より、邑の気持ちはどうでもいいとおっしゃるのですか?」 「それは……」 確かに、邑にも選ぶ権利がある。でも、さっきキスした時、嫌がってねぇし。嫌われてはいねぇと思う。だったらこれから、おれんことぜってぇ好きにさせっし! そう意気込んで反論しようとすると、先に『兄さん、違います』と、邑が泣きそうな顔で、かまちょの前で首を横に振った。 「何が違う?」 「私が三様を嫌がっているような言い方は、違います」 「何を言って……」 「兄さんには、兄さんを助けたいから、三様の男嫁様のフリをさせて欲しいと申し出ました。でも本当は……違うんです。少しの間でいいから、三様のお側に、と……そう思って……」 邑は、去年の夏、うちに家事の手伝いに来ていた時、側でおれを見ているうちに、惹かれていったと話し始めた。 あの頃のおれは、雨花の誕生日プレゼントを買うために、それこそ朝から晩まで働いて、自分でも驚くくらい身長も伸びたし、体格的にもガッシリした。 邑がうちの手伝いを始めた頃は、可愛い見た目だったおれが、雨花のためにどんどん男らしくなっていく過程を側で見ていて、夏休みがあける頃には、おれを尊敬してた、なんて、言ってくれて……。 鎧鏡の嫁候補ってことで、雨花を狙うのを周りに反対されても、雨花に対して一途なおれを見て、いつしか雨花を羨ましく思っていたと、邑はそう言った。 そのあと、おれが雨花に振られて、今から男嫁を探すなんてどうしたらいいのかって話をかまちょからされた邑は、自分が男嫁のフリをしたらどうだろうと、かまちょに提案したんだそうだ。 かまちょには、かまちょに恩返しがしたいからという理由で言い出したそうだけど、本当は、おれのそばにいたかったからだって……。 なんだよ!邑はおれんこと、すでに好きだったんじゃねぇか!邑が言ってた”大事な奴”にムカムカしてたけど、それ、おれだったってことだな?! 「これでもう何の問題もねぇじゃねぇか。当の本人がいいって言ってんだ」 おれがかまちょにそう言うと、かまちょより先に、邑が『いいえ!』と、おれの言葉を否定した。 「(かける)の出の私が、三様の男嫁様など、身分違いです」 身分違いだと?! んな理由で諦めっかよ! 「本家はおめぇの素性わかってんだろ?おめぇんこと守るために転校させたの、本家じゃねぇか。本家はおめぇが翔の出だろうがなんだろうが、おれの嫁として守る気満々ってことだろうが!」 「ですが……」 「うるせぇ!嫁はおめぇに決めたって言ってんだ!おめぇの気持ちがおれにあんなら、おめぇで駄目な理由なんか一つもねぇ!」 そこまで静かに聞いてたかまちょが、『藍田家には邑で駄目な理由はないかもしれませんが、翔はわかりません』と、腕を組んだ。 「翔?」 「翔の里を下りたとはいえ、邑は里の人間です。今回の件、邑はあくまで仮の男嫁様だと、(かしら)には報告してあります。本気で邑を娶る気なら、改めて翔の頭の許可を仰ぐ必要があります」 「わかった」 「三様!」 「すぐ向かう」 「そんな!」 「三様。まずは邑と話し合ってください。邑の気持ちはわかりました。ですが、恋愛と結婚は別物ですよ」 「……わかった」 「私はしばらく出ております」 かまちょは、口をギュッと結んで、家を出ていった。 「駄目か?」 「え……」 「おれはおめぇを娶りてぇ。駄目か?」 「冷静になって、考えてください。私に藍田の(はん)様など、勤まりません。宇賀さんは、人の上に立つことに慣れていらっしゃいますし、伴様にふさわしいお方かと……」 「ふさわしいかどうかじゃねぇよ。おめぇを娶んのは駄目かって聞いてんだ」 邑は口を結んで視線を落とした。 「おめぇの言いなりんなって、那乃葉を娶りゃいいのか?おれが那乃葉を娶ったら、おめぇ嬉しいのか?」 そう聞くと、邑は泣きそうな顔をして立ち尽くした。 「嬉しいのかって聞いてんだよ」 「祝福、します」 「おれが那乃葉んこと娶ったら、おめぇ、嬉しいってことだな?!」 邑の手首を掴むと、邑は『嬉しいわけ……』と言って、うなだれた。 「嬉しくねぇなら祝うんじゃねぇよ。おれはおめぇがいいっつってんだ。他の奴んこと推してんじゃねぇよ」 邑をギュウっと抱きしめると、『でも私は三様の好みとは全然違うし』と、おれから逃げようとすっから、『好み?』と聞くと、『華奢で綺麗な方がお好みだとおっしゃってたじゃないですか。私は華奢でも綺麗でもないです』なんて言いやがるから、おれは邑をさらにきつく抱きしめた。 「おれからしたらおめぇなんぞ、細ぇし小せぇし……めちゃくちゃ……可愛いわ、くそが」 邑は、『そんな』とか『何を』とかゴニャゴニャ言いながら少しもがいたあと、おれの腕をキュッと掴んだ。 「翔に、おめぇを娶る許可、もらいに行っていいか?」 しばらく沈黙した邑は、おれの腕ん中で顔を上げた。泣きそうな赤い目ぇして、キッとおれんこと見上げっと、『本当に、私で、いいんですか』と、絞り出すみてぇにそう言って、視線を下げた。 「おめぇがいいっつってんだろ」 抱きしめる腕に力を入れると、邑は肩を震わせて泣き始めた。 「おめぇがいいんだ」 邑の頭に頬擦りすると、聞こえねぇくれぇ小せぇ声で、『私も』と言った邑の体温が、上がったような気がした。 「よぉし!善は急げだ。……かまちょ!」 廊下でジッと待ってるだろうかまちょを呼び戻して、翔の里に行くと告げた。 邑が大学教授になりたいならなればいいし、邑の夢を潰すような真似は絶対しねぇから、邑を娶ることを認めて欲しいとかまちょに話すと、『まずは(かしら)に許しを得てからです』と、顔をしかめられた。 とにかく、まずは翔の頭に、邑を娶ることを許してもらって、かまちょにも祝って欲しい。 かまちょに認められねぇまま、邑を娶ることは出来ねぇし、したくねぇ。 翌日、バイトのシフト変更をしてもらって、さっそく翔の里に行くことにした。 その前に、おれは那乃葉んちに行って、本気で嫁にしたい奴が見つかったから、別れて欲しいと頭を下げた。 那乃葉は、『何それ?』とだけ言って、家のドアを思い切り閉めた。おれは閉められたドアに向かって、『ごめん』ともう一度頭を下げて、那乃葉の家をあとにした。 家に戻ると、かまちょが玄関で、『行きますよ』と、仁王立ちしていた。 『へ?』と言うとかまちょは、『私は三様の影ですから。ご同行するのは当然です』と言って、口を結んだ。 『それに、案内が邑一人では、里にたどり着けないかもしれませんから』と、顔をしかめて、『早くお支度なさってください』と、おれを急かした。かまちょも行ってくれると聞いたら、俄然心強く思った。何だかんだ言っても、かまちょはいつも、おれの味方でいてくれる。 電車とバスを乗り継いで向かった翔の里は、藍田の本家から少し離れた山の中にあった。この山は、私有地として入山が禁止されてて、どっから入ったらいいのかすら、おれには見当もつかねぇ。 翔の里は、そんな山の山頂付近に、人目を避けるようにひっそり存在していて、里の人間が住む集落は、航空写真にも映らないような家の造りになっているのだと、邑が説明してくれた。 普通の人間なら、間違ってこの山に入ったとしても、里に迷い込むことすら出来ねぇらしい。 しばらく歩いて里に着いて、頭の住む屋敷に通されてすぐ、今日、頭は不在だと伝えられた。約束もなく来ちまったことを、かまちょが案内してくれた人に謝ると、頭の代理って人で良ければ会えると言われた。おれは食い気味に、そうさせてもらいたいとお願いした。 荷物を置いて支度を整えると、頭の代理と会うため、おれ一人が応接室に通された。 応接室のふすまが開けられたと同時に頭を上げっと、キリッとした、でもまだ幼さの残る顔をした、どう見ても中学生くらいの男の子が、応接室の中に一人で座っていた。 案内の人に、『どうぞお入りください』と促されて部屋に入ると、中学生くらいのその男の子は、にこりとおれに笑いかけた。 「こんにちは」 「あ、こんにちは」 この子も、頭の代理って人を待っているのか? そう思ってジッとしていると、その子は、『今日の用件は?』と、こちらに話し掛けてきた。 『結婚の許しをもらいに来たんだ。キミはどんな用件?』と返事をすると、にっこりした男の子は、『人を見た目で判断なさるかたとは、平等な立場でお話しすることは出来そうにありません。何やら頼み事があるとのことでしたが、口のききかたを学んでから、いらしてくださいますか』と言って、『客人はお帰りだ』と、少し大きな声を出すと、外からスラリとふすまが開いて、『お疲れ様でございました』と、さっきこの部屋まで案内してくれた人が、こちらに向けてお辞儀をしていた。 訳がわからないまま元の部屋に戻されて、かまちょに今のことを伝えると、『まさかぼたん様が代理で応対してくださるとは』と、ため息をついた。 「ぼたん様?」 「ぼたん様は、お頭様のご長男で次期(かしら)……うちの里の次代(じだい)様です。三様が、どう見ても中学生がいたとおっしゃっていたその男の子が、お頭様の代理のぼたん様です。現在は鎧鏡家にお仕えで、里にはそうそうお帰りにならないと聞いていたのですが……。とにかく、ご挨拶以前の問題でしたね。邑のことは諦めてください」 あの中学生が、頭の代理人だと?!うわぁ、やっちまった。あの子の言う通り、おれはあの子の見た目だけで、頭の代理人のわけがねぇって思い込んじまってた。 いや!やっちまったとしても、諦められっか! 「諦めるわけねぇだろ!もう一回挨拶してくる!」 案内をしてくれた人に、もう一度通して欲しいとお願いすると、『次代様はもう立たれました。またの機会に』と、深く頭を下げられた。『じゃあ、頭に会える日を教えてほしい』と頼むと、『お頭様はしばらく里には戻りません』と、その人はもう一度頭を下げて、部屋を出て行っちまった。 「どうしろっつぅんだよ!」 「まだ結婚の許しをもらいたいとお考えなら、お頭様かぼたん様の居場所を探すしかありません」 「はあ?!」 おれが顔をしかめると、邑が隣で、『面倒な手続きを踏まねばならぬ私よりも、別の方をお選びになったほうが』なんて言い出しやがった。 「おめぇを娶るために必要なら、頭でもぼたん様でも誰でも、どこまでも探して、ぜってぇ許しもらってやる!面倒なわけねぇだろうが!頭に許可もらったら、その足でおめぇんちにも、挨拶行くつもりだったんだ」 おれが、『わりぃ』と、邑に謝ると、かまちょは、『お頭様を探すより、ぼたん様のほうが会いやすいかと思います』と、ふいっと視線をそらした。 そうか!さっきのぼたん様ってのは、いつもは鎧鏡家にいるって、さっきかまちょが言ってた! おれはすぐに、すーちゃんに電話を入れた。 『珍しいな』と、開口一番そう言ったすーちゃんに、『ぼたん様に会わせて欲しい!』と言うと、『あ?ぼたん?』と、訳がわからないというような返事をされたので、おれは翔の里に、邑との結婚の許可をもらいに行って撃沈するまでを、ダイジェストで話して聞かせた。 『ぼたんは、雨花の小姓をしておる。少し待て。そこにおるゆえ』 「え?!」 すーちゃんが、『あお』と、雨花を呼ぶ声が聞こえてきた。そのあと、『何?電話、誰から?』という、雨花の声が聞こえてきた。『衣織だ』と、すーちゃんが言うと、『え?!衣織?もしもし?』と、雨花が電話を代わった。 『詳しい話は、あとですーちゃんに聞いて。とにかく急いでぼたん様に会わせて欲しいんだ』と言うと、『ぼたん様?』と言った雨花がケラケラ笑った。『何?』と聞くと、『ううん。衣織がぼたんをぼたん様なんて言うから。ぼたんって本当にすごい子なんだなって思って』と、またフフっと笑った。 「僕、やらかしちゃって……もしかしたら、会わないって言われちゃうかもしれないんだけど」 『でも会いたいんだろ?大丈夫。会いたくないってぼたんが言っても、オレが説得しておくから。何をどうやらかしたか知らないけど、衣織がぼたんを傷付けるわけないのはわかってるから。今どこ?これからこっちに来る?』 「ありがと!雨花!すぐ向かう!」 うおおおおお!さすが雨花! おれは翔の里のある山を下りてすぐ、本家の車をまわしてもらい、かまちょと邑と一緒に鎧鏡家に向かった。 鎧鏡家の正門についたのは、もうすぐ日が暮れそうになる頃だった。 正門で名乗ると、鎧鏡家の車に乗り換えさせられて、10分近く走ったか?ドンとした門構えのお城のような建物の前の車寄せに、車が停められた。 『二の丸でございます』と言った運転手さんに車のドアを開けてもらって外に出ると、『衣織!久しぶり!』と、手を振りながら満面の笑みでこちらに歩いてくる雨花と、その隣を歩くすーちゃんがこっちに歩いて来るのが見えた。 「雨花、ありがとう!」 「お安い御用だよ」 「あ、こっちがかまちょで、こっちが、邑」 そう二人を紹介すると、かまちょが、『その節は……』と、雨花に深々と頭を下げた。 『うわぁ、かまちょさん!こんなに近くでお会いするの、初めて、ですよね?』なんて、ニコニコしたあと、雨花は、『邑さん、初めまして。えっと……雨花?え?柴牧青葉……のほうがいいのかな?』と言って、すーちゃんを見上げた。フッと笑ったすーちゃんは、『鎧鏡皇です。こちらは雨花です』と、自分と雨花を紹介して、邑と握手をした。 何か、またさらにすーちゃん、丸くなった気がする。雨花を嫁に決めたってのは、すーちゃん本人から聞いて知ってる。でもそれは、本当の仲間内だけしか知らねぇことで、対外的に雨花は、すーちゃんの一嫁候補に過ぎねぇってことになってる。ホントのことを知らねぇ奴らは、詠がすーちゃんの嫁になんだろうって思ってるはず。そう思わせるような情報ばっか、鎧鏡はあえて出してるみてぇだし。雨花を守るためとはいえ、詠も大変だな。 「さ、入って」 雨花に促されたけど、ぼたん様はおれに会うって言ってくれたのか? 「あの、会ってくれるって?」 「え?ぼたんがどう言おうが、会いたいんだろ?」 「そう、だけど」 「会わないとか言われると面倒だから、衣織が来るって言ってない」 「はあ?!」 「大丈夫大丈夫。オレが会って欲しい人がいるってお願いして連れてきたから。ぼたんがどれだけ嫌でも、とりあえず会うだけは会ってくれるよ」 「ええええ?!」 そんな、騙すみてぇに会って大丈夫かよ。口のききかた学んでこいって言われたの、今朝の話なんだけど……。 邑をチラッと見ると、邑はおれ以上に完全に緊張してるみてぇで、自分の手をギュッと握っていた。 おれが弱気になってどうする!おれは邑の手を包んだ。驚いてこちらを見上げた邑に、大きくうなずいてみせっと、邑も小さくうなずいた。雨花がニヤニヤしながらこっち見てんのに気付いて、『何?』と言うと、『何かオレも幸せ』と、背中をバシッと叩かれた。 『さ!急ごう』と、言った雨花に案内されて、屋敷の中に入っていった。すぐ近くの部屋のドアを何度かノックした雨花は、『開けるよ』と言って、ドアを開けた。 「どうしても、"ぼたん様"に会いたいんだってさ。話だけでも聞いてあげて。ぼたん、衣織のこと知ってるよね?」 まだ部屋に通されていねぇおれからは、ぼたん様の姿は見えねぇ。雨花がそんな風に話しかけると、部屋の中から『若様、雨花様に、里のことでご面倒をかけるなど、大変申し訳ないことでございます。お許しください』という声が聞こえてきた。 「衣織は余の弟同然。その衣織の大事だ。面倒などつゆほども思わぬ。ぼたん、話だけでも聞いてやって欲しい」 「ぼたん、衣織が来たこと黙っててごめんね。オレからもお願い。衣織の話、聞いてやって」 二人にそう言われて、おれはぼたん様がいるだろう部屋の前まで行って土下座した。 「今朝は、大変失礼致しました」 ぼたん様は、『まさか今日中にここまでいらっしゃるとは……話を聞きます。どうぞお入りください』と、頷いてくれた。 後ろから『邑さんもどうぞ』という雨花の声が聞こえて振り向くと、邑が雨花に押されて顔を出した。 「ご無沙汰しておりました、次代様」 「ああ、邑、久しいな。息災のようで嬉しいよ」 「ありがとう存じます」 邑が頭を下げると、『じゃ、ごゆっくり』と、雨花がドアを閉めた。 「私事で次代様にご面倒をおかけしまして、大変申し訳ないことでございます」 邑がおれのすぐ隣に正座して、ぼたん様に頭を下げた。 「先に(よう)から連絡をもらっていたんだ。用件は聞いている」 「ぼたん様!邑を娶ることを、翔のお頭様にお許し頂きたく参りました!」 もう一度土下座をすると、ぼたん様は『あなたが藍田の当主に選ばれなければ、女性を娶る決まりですよね』と、言った。 「おれは必ず、当主になります。当主として藍田をおさめていくことを考えた時、邑にそばにいて欲しいと思いました。当主に選ばれない未来などありません。必ず当主になります!どうか邑を娶ることを、お許し下さい」 ぼたん様は『甘い』とつぶやくと、『邑はどう思う』と、邑に顔を向けた。 「全て、覚悟しております」 邑はそう言うと、ぼたん様としばらく見つめ合った。 ぼたん様は、『わかった』と頷くと、ソファから下りて、その場で正座をすると、こちらに頭を下げた。 「邑の覚悟の強さがわかりましたので、翔の次代として、此度の件、了承致します。私の言葉は、翔の総意とお受け取りください。藍田の三様、里の民である邑を守るためとはいえ、これまでの非礼、どうぞご容赦いただければと存じます」 ぼたん様がさらに頭を下げた時、『おめでとう!衣織!』と、雨花がバンっ!と扉を開けた。 「うお!」 「ぼたん、こんなに普通に話せたんじゃん」 「言ってはいけないことまで話してしまいそうで、普段は極力話さないようにしております」 「言ってはいけないこと?」 「あの、上様のこと、ですとか」 「ああ!ああ、そういうことね」 何の話かおれにはわからなかったけど、改めて雨花のすごさはわかった。翔の次代様を使ってるとか、すごくねぇ?どんだけ大事にされてんだよ。出来ることならおれだって、邑にそんくらい万全な守りを付けてやりてぇとこだけど、やりてぇからって出来るもんでもねぇのに、すーちゃんにはやれてるっていう……。 藍田と鎧鏡の格の違いを見せつけられたみてぇで、ちょっと悔しくなった。 「あとは、次期戦だな」 すーちゃんにそう言われて、『すーちゃんは静生を応援してんだろ』と言うと、『静生は一番付き合いの長い友ゆえ』と、ふっと笑った。 「静生が継ごうがお前が継ごうが、鎧鏡と藍田の付き合いは、余の代でも今と変わらぬ。藍田の次期戦に鎧鏡は口を挟まぬゆえ、正々堂々、静生と戦うが良い」 「次すーちゃんと会う時は、次期当主同士って立場でいるはずだから」 そう言うと、すーちゃんは鼻で笑って、『そうだと良いな。わざわざここまで挨拶に参るほど娶りたい相手なのだろうから』と、邑に視線をうつした。 「うん」 次期戦に負ける気はしねぇけど、万が一負けたら、邑を娶れねぇ。当主にならねぇ未来も邑を娶らねぇ未来も、考えらんねぇし、考えねぇ。 「絶対、僕が勝つよ」 翔の里の許可を得た翌日、おれは邑とかまちょと一緒に、今度は邑の実家に出向いて、邑の家族みんなから、邑と結婚することを許してもらった。もちろん、かまちょからもだ。 その足で、藍田の本家に、初めて二人一緒に出向いて、改めておれから、邑を男嫁に決めたと、父ちゃんと母ちゃんに報告した。二人とも、邑を大歓迎してくれた。 東京のアパートに帰ってから、邑はおれの嫁なんだし、これからはおれの部屋で一緒に寝たらいいんじゃねぇかと提案すっと、かまちょに大反対された。 当主に決まったわけでもないのに、邑を嫁にした気にならないでください!とか言いやがって……。同衾は、当主になると決まってからです!それまでは次期戦に勝てるよう、鍛錬を怠らないでください!と言われ、おれはスゴスゴ引き下がった。 でも、かまちょの言うとおりだ。今は確実に邑を娶れるように、次期戦に向けて鍛錬を……って……。 「かまちょ」 「はい」 「なあ、次期戦って何すんだ?」 「次期戦については、口外無用。私も全くわからないのです。とにかく、どのような勝負で決められるのかはわかりませんが、日々の鍛錬だけは怠らずにいてください」 「わかった」 どんな勝負だろうが、絶対に勝つ。今更、邑じゃねぇ誰かと結婚なんて……考えらんねぇ。 さらにその翌日、雨花から、膨大なデータ量のメールが届いた。何かと思ってメールを開くと、『付き合いたてって言ってたから、先輩からプレゼント。実践してみて』と書いてある。 データ量を重くしているだろう原因の添付資料を開くと、一番上に、『正しいお付き合いの仕方』と書いてある。 なんじゃこりゃ?と思いながらスクロールしていくと、手を繫ぐとか、二人だけの呼び方を決めるとか、イチャイチャするとか書いてあった。 邑と……イチャイチャ?!たいがいかまちょがすぐ近くにいるから、邑とこういう……お付き合いしてます的なことなんかしたことねぇ。キスだって、最初にやったあの二回以降、出来てねぇし。 良し!ここは先輩からのアドバイスがあったからっつぅ理由で、邑と一気に距離を縮めるチャンスだ! これは先輩からのアドバイスを実行するっつぅミッションであって、おれ自身の欲から言ってることじゃねぇっていうていでいったらいいんじゃねぇの? 邑を呼ぼうと後ろを向くと、すぐそこにかまちょが仁王立ちでおれを睨んでいた。 「おあっ!」 全く気付かなかった!嘘だろ!こんなとこで影としての実力出してんじゃねぇよ! 「邑との距離を縮めるのは、確実にご当主様を継ぐと決まってからと言いましたよね?それまでは、お触り禁止です!いいですね?」 「う、はい」 かまちょの迫力に気圧されて、素直に頷いた。 お触り……は、まあ、おいおいするとして、呼び方だけはどうにかしてぇ。いつまでも『三様』呼びっつぅのはどうかと思う! かまちょにそう言うと、『呼び方くらいお好きになされば良いのでは』と言われたので、邑に名前で呼ぶように言うと、『衣織様、ですか』とか言って照れやがった。だから、そういうとこがギャップ萌えっつうんだよ!くそ可愛いか! 『おめぇのほうが年上なんだから呼び捨てでいいだろうが。あ、家族はみんな、おれんこと"いお"っつぅから、おめぇも"いお"って呼んだらどうだ?』と言うと、『とんでもないことでございます!』と、青い顔をすっから、『じゃあ、"くん"付けまでは許す』と睨むと、『"さん"付けでお許しください!』と、土下座してきた。 ま、"様"よりいいだろ。この先ずっと一緒にいんだ。こんなかしこまってんのも今だけだろ……と、"さん"付けで納得した。 雨花が送ってくれた『正しいお付き合いの仕方』を実践すんのは、早くても次期戦が終わってからになんだろうけど……かまちょがそばにいんのに、邑とイチャコラとかめちゃくちゃ気まじぃじゃねぇか。 何とかかまちょをまいて、邑と二人っきりになる時間を作んねぇと、せっかく邑を娶ることを許されたっつぅのに、いつまでたっても手ぇ一つ握れねぇかもしんねぇのか?! ……んなの、ありえねぇ! よし!次期戦が終わったら、もっと広いとこに引っ越して、邑も一人部屋にしてやる!そうすりゃあ、こっそり夜這いくらいは出来っかもしんねぇし! 当主の仕事の引き継ぎの前に、まずは邑とのアレコレが最優先だ! 八月某日。 次期戦参加の有無を話し合う『選抜会議』に出席するため、かまちょと邑と一緒に、本家に向かった。 朝からずっと緊張した顔の邑は、何度もトイレに行っていた。 車だと渋滞に嵌る可能性もあるからと、本家には新幹線で向かうことんなった。 新幹線に乗る前のプラットホームでも、『あの……少し失礼します』と、トイレに向かった邑の後ろ姿を見て、『なんで邑が緊張してんだ』と笑うと、かまちょが『私も緊張しております。三様の精神力がおかしいんですよ』と、顔をしかめられた。 すぐ戻ってくると思っていた邑が、5分経っても戻ってこない。おかしいと思ったのと同時に、かまちょが、『遅いですね。様子を見てきます』と、邑が入っていったトイレに、小走りで向かった。 緊張で腹でも壊したのかもしんねぇ。 そんな風に思っていると、白い顔をしたかまちょが走って戻ってきた。 「邑がいません」 「え?」 「邑がいないんです!」 おれは、かまちょの言葉を最後まで聞かずに、トイレに向かって走り出した。 個室は全てドアが開いていた。 後ろから走ってきたかまちょに、『別んとこ、行ったとかか?』と言いながら、邑の携帯に電話をかけた。 呼び出し音はするけど、すぐに留守電の録音をするかという案内が始まった。 「何か買い物をしているとかかもしれません。まだ発車までは時間がありますから。ですが、念の為探してまいります」 「ああ」 「三様は、邑が戻ってきた時のために、そちらで荷物を見ていてください」 「わかった」 荷物の場所まで行って、もう一度邑の携帯を鳴らしてみると、近くで小さな音が聞こえてきた。邑のカバンの中からだ。 邑のカバンのファスナーを開けると、すぐそこに携帯電話が光っているのが見えた。 「あいつ……」 携帯持たずに、どこ行っちまったんだ。 キョロキョロとあたりを見渡していると、かまちょがハァハァ言いながら戻ってきた。 「もう新幹線が来ます。乗らなければ、選抜会議に間に合いません。邑は私が探しますので、ひとまず三様は本家へ……」 「馬鹿こくでねぇ!邑がどこ行っちまったのかわかんねぇまんま、おれだけ先に行けるわけねぇだろ!」 「邑は……怖気づいたのかもしれません」 「は?」 「藍田の伴様になる覚悟が出来ず……」 「邑は、んな奴じゃねぇ。おめぇが一番信じてやんねぇでどうすんだ!くそが!とにかく邑に何かあったんだ。おれも探す!荷物はおめぇに任せた!」 「三様っ!」 邑が怖気づいて逃げただと?邑は、んな奴じゃねぇよ、ぜってぇ。 怖気づいて逃げたわけじゃねぇのに、行ったはずのトイレにいねぇってことは……。 最悪の可能性が頭に浮かんだ。 今日の選抜会議に、おれと邑を出させたくねぇ奴らの仕業か?静生は邑に手ぇ出すなんて、んな汚ぇ真似するわけねぇ。でも、静生をどうしても当主にしてぇ奴が、勝手に邑を連れ去ったとしたら……。 「くそっっ!!」 おれは、静生に電話をかけた。 『いお?どした?今、どのへんだ?』 「邑が消えた!」 『あ?』 「邑がトイレ行くっつって、んのまま居なくなっちまった!」 『今、駅か?』 「うん」 『こっちでも手ぇ回す。ぜってぇ探し出してやっから、心配すんな』 「静生……」 『情けねえ声、出してんじゃねぇよ。かまちょ一緒にいんだろ?そこらへんにいる翔の里の奴ら、使うように言え。報酬は翔の言い値で藍田が出す』 「わかった!」 小せぇ頃、女みてぇだったおれんこと、静生がいっつも守ってくれたの、思い出した。静生はずっと、おれの自慢の兄ちゃんなんだ。 当主んなったら、今度はおれが静生んこと、ぜってぇ守っから! かまちょに連絡して、近くにいる翔を動員してもらうよう指示した。どこをどう探していいかわかんねぇけど、おれは、めちゃくちゃ広ぇ駅ん中を、とにかく端から端まで駆けずり回って邑を探した。 もうどこにもいねぇ……と、途方に暮れてっと、静生から電話が入った。 邑の居場所、わかったかもしんねぇって。 「どこ?!」 『おめぇ、他に狙ってたコ、いたべ?』 「え?那乃葉?」 『ああ、それそれ。邑をさらったの、そいつじゃねぇかって』 「……嘘」 『まぁわかんねぇけど、わし、今、そいつんち向かってっから』 「え?!ちょっ……おれも!おれも那乃葉んち向かう!……静生」 『ん?』 「あんがと」 『バッカ。おめぇに礼言われっとか気色わりぃわ』 「礼はあとですっから」 『こんなん、礼もらううちに入んねぇよ。んなことより、ぜってぇ邑、助けっぞ』 「うん」 かまちょが用意した車で、那乃葉んちに向かった。那乃葉んちに着く前に、もう一回静生から電話が入った。邑を拉致ったのは、那乃葉が金で雇った奴らで決まりみたいだって……。 かまちょと一緒に那乃葉んちに入ると、手足を椅子に拘束された那乃葉と、ソファにドッカリ座ってる静生がいて、キッチンのほうから出てきたすずが、こちらに頭を下げた。 おれを見た那乃葉は、『ボクは謝らない!』と、おれをギッと睨んだ。 「ああ。謝るのは、僕のほうだ」 おれは、その場で那乃葉に頭を下げた。 「那乃葉は綺麗で……嫁にしたいって思ったのは本当なんだ。でも、那乃葉と付き合って、那乃葉のことを知っていくうちに、僕とは、人の上に立つってところの根本的な考え方が違うことに気付いていった。僕は当主を継ぐつもりだから、そこの考え方の違いは結構致命的で……いや、そうじゃないか。綺麗事言った。ごめん。ただ単に、邑がいいんだ。邑がいるうちに帰りたいって思ってる自分に気付いて……ごめん。一方的に別れようって言って、終わらせたつもりでいたんだ。もっとちゃんと説明するべきだった」 「どれだけ説明されても同じだっただろうから、そこはどうでもいいんじゃない?」 那乃葉は拘束されたまま、そう言って鼻で笑った。 「え?」 「藍田先輩のこと好きなんじゃないかって、ボク、何回か聞いたよね?そのたび否定してくれたのを信じて、衣織くんと結婚すること真剣に考えて、親にもちょっと話してたんだ。それなのに……結局、藍田先輩がいいとか……ボク、何だったの?」 「ごめん……」 「親になんて言ったらいいんだよって思ってたんだけど、当主になれなきゃ女の子と結婚するって話、思い出したんだ。衣織くんが女のコと結婚すれば、結局、女のコが良かったみたいって言えば、親も納得してくれるかなって。衣織くんが、当主も藍田先輩も手に入らないってことになったら、ボクもスッキリするだろうし?」 那乃葉には、付き合うってなった日に、今日、選抜会議が開かれることも、その後すぐに次期戦が行われて当主が決まるってことも、全部話していた。 おれが今日の選抜会議に出られねぇようにすんのは、おれ自身をさらうより、邑をさらうほうが簡単だろうから邑をさらったと、那乃葉は笑った。 「邑の居場所を教えて欲しい」 おれが頭を下げると、那乃葉が、『会議に出られないならそんな急いで探す必要なくない?』と笑った。 そこで静生が、『早く邑の居場所、言ってくんねぇか。これ以上待ってらんねぇんだわ』と、那乃葉をギロリと睨んだ。 固まった那乃葉に、静生は、『性的暴行目的で高校生を監禁した少年Aって見出しで、ネットニュースに晒してやろうか』と言って、携帯で那乃葉の写真を撮った。 「ちょっ!何して……」 おれが静生を止めようとすると、『いしゃあ、んな奴に罪悪感とか持ってんじゃねぇよ』と、怒られた。静生は、すぐそこにあった、何に繋がっているのかわからないコンセントを抜くと、那乃葉に、『無理矢理、口割らせっと犯罪になっかもしんねぇけど、もみ消しゃいいべ』と、詰め寄った。 静生がコンセントをどう使おうと思ってるかわかんねぇけど、静生みてぇなデカくてムキムキの男に詰め寄られたら、それだけで普通はビビる。 『早く言え』と、那乃葉が拘束されてる椅子を、静生がコンっと蹴ると、那乃葉は声を震わせながら、『マンションの、公園にある、防災用の、備蓄倉庫』と、言った。 おれは急いで外に出て、那乃葉が言った、マンション内の公園に向かった。 「邑!」 倉庫の前で大声で呼びかけると、聞こえるか聞こえないかの小さい声で、『衣織さん』という邑の声が中から聞こえてきた。一緒に来たすずが、倉庫のカギを何かを使って開けて中に入ると、そこには、手を血だらけにした邑が立っていた。 「な……」 立ち尽くしたおれに、すずがハンカチを渡した。 おれがそれを受け取って、邑の手をハンカチで包むと、邑は『会議は?選抜会議はどうなさったんですか?!』と、泣きそうな顔をした。 「んなことより、何された?」 邑の手をギュッと握ると、『早く会議に向かわないと!』と、おれの手を押した。 「もうどのみち間に合わねぇよ。いいからまずはその手、何とかしねぇと」 「そんな……私のせいで、会議……」 邑がガクガクし始めると、後ろからすずが、『一様もここにいる。二様が会議に出席していらっしゃるが、二様は男嫁様を連れていらっしゃらない。選抜会議はやり直すことになるだろう。気に病むな。それよりも、その手の治療が先だ』と、邑の腕に手を置いた。 「え?!衣織さん、選抜会議に出られるんですか?」 すずの言葉で邑が顔を明るくすると、後ろから、『明日の朝からやり直しになったとよ』と、静生の声が聞こえて来た。 振り向くと、那乃葉を連れた静生が、『おんたんが、うまいこととりなしてくれたってよ』と、頷いた。おんたんって……静生、未だに寿恩のこと、”おんたん”呼びなのかよ。寿恩も嫌がんねぇのかな。 それはいいとして、邑のこの傷……。那乃葉がつけたのか? 「邑んこと、傷付けたのか?」 那乃葉を睨むと、後ろで邑が『違います!』と、大声を上げた。 「へ?」 邑は、何とかこの倉庫から出られないものかと、ドアを開けようとしたり、窓から出ようと色々試している間に、手が傷だらけになってしまったようだと眉を下げた。 「こんなことになってしまって、本当に申し訳ないことでございます。もっと鍛錬していれば、さらわれて、ご迷惑をかけることもなかったのに……」 そんなことを言う邑を、『うるせぇ!迷惑なんて言ってんじゃねぇ!』と言って、思い切り抱きしめた。 「おめぇが一番の被害にあってんだ!おれんことより、おめぇんこと心配しろ!んな血ぃ出してんのに……すぐ病院行くぞ!」 小さく頷いた邑の肩は、いつもより華奢に感じた。邑の頭に頬をこすると、邑の髪からは、やっぱり懐かしいにおいがした。こいつのにおい、ホント落ち着く。こんな時なのに……いや、こんな時だからかもしんねぇけど。 こいつがいなくなってたら……そう思うとすげぇ怖くなって、おれは、邑を抱きしめる腕に力を入れた。 「おめぇんこと、一人にすんじゃなかった。怖かったよな、わりぃ」 邑の手を包むと、邑はキュッと口を結んだ。しばらく泣くのを我慢するように唇を噛むと、『早く戻らなければと必死でしたので、怖くは……』と言って、うつむいた。泣くのか?と思ったら、別のところから、嗚咽が聞こえてきて、ふっと顔を上げると、静生に掴まれている那乃葉が、ボロボロ泣いていた。 「え?」 何で那乃葉が泣いてんだよ。 那乃葉は、『ごめんなさい』と、邑に向かって頭を下げた。 は?何を今さら……と思っていると、カフェのバイトをしている時、邑に助けてもらった時のことを思いだしたと、那乃葉が話し始めた。あの時も、那乃葉を助けた邑は、血だらけになっていたって。今、血だらけの手をしてる邑を見て、それを思い出したらしい。 体を張って自分を助けてくれた邑を、こんな目にあわせたことを、今更ながらどうかしていたと、那乃葉は泣きながら謝った。 「衣織さんが今日のことで、当主になれないなんてことになっていたら、私は……私自身とあなたを、生涯許さなかったでしょう。ですが……選抜会議はやり直しということですし、宇賀さんの気持ちもわからなくもないので、許します」 邑はそう言ったあと、キッと那乃葉を睨んだ。 「でも、次はないですよ……絶対に。相手が誰であろうが、衣織さんを陥れようとする人間は、全力で討ちますから、そのおつもりで」 そん時初めて、邑んこと、かまちょに似てんなって思った。そんな風に言ったわりには、しゃがみ込んでる那乃葉を立ち上がらせて、汚れた膝をパンパン叩いてやった邑んこと、めちゃくちゃカッコいいと思った。 「イケメンな嫁さんじゃねぇか」 静生がそう言って笑うから、おれは『だろ?』と、親指を立てた。 邑は見た目はイケメンだけど、中身は穏やかな癒し系だと思ってた。みんなからも『おかんだくん』とか呼ばれてるくれぇだし。 でも邑ってやつは、実は中身も相当イケメンなんじゃねぇの? 「とにかく早く病院行くぞ。痛まねぇか?」 『見た目ほどじゃないです』と笑った邑の手首をつかんで、抱き寄せた。 邑んこと、嫁にしてぇってかまちょに言えるまで色々あったけど……諦めねぇでこいつんこと選んだ自分んこと、よくやったって褒めてぇわ。 抱き寄せた邑が、真っ赤んなってモジモジしてる。 だから!そういうとこ!さっきまでおめぇ、イケメン臭ふりまいてたじゃねぇか!それが、ちょっと抱き寄せたくれぇでそんな赤くなって……くそ可愛いか! 邑が診察されてる間、待合室でぼーっと待ちながら、しばらく両手使えねぇってことは、色々困んじゃねぇか?風呂だのトイレだの、アッチの処理だの……なんてことを考えてた。邑はおれの嫁なんだし、おれが手伝ってやんねぇといけねぇよな?と思いながら、邑の診察が終わんのを待ってっと、診察室に、家族として一緒に入ってたかまちょが、『大丈夫だそうです。お風呂なんかも手袋をして入っていいそうですから。この怪我で生活に支障はきたさないようです』と、にこにこしながら先に出て来た。 それ聞いて、邑が無事なのは喜ばしいけんど、何の手伝いもいらねぇのかよ!と、若干……ホントに若干だけ、残念な気持ちになっちまったことを、素直に心ん中で邑に謝った。

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