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第55話

 確かに見張りの連中をたった一人で片付けてきたようではあるが、だからといって自分が相手をすればそこそこ互角に戦えると信じて疑わなかったのだろう。戦闘体制の為か、抱えていた紫月をソファへと乱暴に放り投げれば、さすがに男の表情がピクリを動いた。  その一瞬の隙を見逃すはずもなく、氷川は間髪入れずに目の前の男へと拳を繰り出した。まるで最初から持てる力のすべてで体当たりせんという勢いで、ともすれば一撃で沈めん気合いの入った強烈な利き手ストレートを振り上げざま、歯を食い縛る。男を殴り倒した時に受けるだろう自身の拳への衝撃を和らげる為だ。  だが、それ程の渾身の攻撃を仕掛けたにもかかわらず、次の瞬間にはまるで想像とは逆の空振りに、一瞬自らの力を制御できなくてつんのめってしまった。予想もしていなかった結果に頭が真っ白になる。 「何……ッ!?」  まさか、かわされただと――!?  そう思った時には、男の大きな掌が自らの喉元にがっしりと食い込んでいるのに気が付いて、氷川は次第に蒼白となった。  一体いつの間に隙を突かれたというわけか。  言っちゃナンだがこんなことは初めてで、それ故しばしは自分がどういう状態にあるのかが把握できなかった程だ。  ここいら界隈ではまともに相手をするのも馬鹿らしいくらいの連中にしか遭遇したことがない。強いと言われていた一之宮紫月に対してさえ、こんな焦燥感を感じたことなど皆無だったのもハッタリではない。  自分の攻撃がかわされるなど有り得ない。  それ以前に、相手の男は大した動きもしていないはずだった。殴るふうでもなければ蹴りを繰り出すわけでもなく、喧嘩には付きものの怒りとか殺気とかいった感情のかけらも読み取れない内に急所を押えられてしまったのだ。  まさか自分が窮地に立たされるなど、経験したこともなければ想像したことすらない氷川にとって、今のこの状況は焦りを通り越して驚愕とさえいえる初めての現実だった。  喉元に食い込んだ男の指には大して力が入っているふうでもなかったが、それがかえって恐怖を突き付けてくるようでもあって、おいそれとは身動きもままならない。おそるおそる窺うように彼の表情に視線を向ければ、そこには静かな中にも鋭い眼光が真っ直ぐにこちらを見据えていた。 「――ここで死にてえか?」  余分な詰りも罵倒もまるでない、短いそのひと言と同時に掴まれていた喉元の指先に若干の力が込められたのに蒼白となる――。  男の言葉は脅しとは到底思えず、ずっとこちらを捉えたまま微動だにしない鋭い眼光がそれを物語ってもいた。  その気なら本当にこの場で殺してやっても構わないという殺気が窺えるのだ。  背筋の凍る思い――などというものでは表しきれないものを感じて、氷川は呆然とさせられてしまった。

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