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第59話

 そんなことで気に病まれたら、こちらの方が恐縮してしまう。まるでこうなったのが彼自身のせいのように言う鐘崎に、紫月の方は逆に戸惑ってしまった。  それ以上は特に何を言っていいか会話も進まなかった。近い位置に二人きりで互いの息遣いまでが分かるような状況に、急激に心拍数が加速する。今更改めて思うことでもないような気がするが、印象的な黒髪や鼻梁の高い整った顔立ち、それに少し憂いを含んだ険しい眼差しなど、そのどれもにドキドキとさせられるのは困りものだ。  氷川からあんな目に遭ったばかりだというのに、邪な感情と共に欲情の感覚までもが疼き出すようで信じ難い。いや、あんな目に遭った後だからこそ余計にそうなのか、気を許せばそれを口実に縋り付いて甘えたくさえなってしまう。今なら動揺に任せて少しくらい大胆になったとしても、大して変に思われないのではないだろうか。  そもそも氷川に犯されている間中、ずっと想いを巡らせていたのはこの鐘崎のことだった。せめて彼に抱かれているつもりでいたいと、切にそう願い続けてもいた。その彼が今目の前に居る。しかも偶然とはいえ、街中で見掛けただけで後を追ってくれて、その上助けてくれたのだ。  そんな彼に縋りたいと思うのはごく普通の感情ではないだろうか。格別におかしなことではない。ありがとうと言って彼の胸に顔をうずめ、そのまま逞しそうなこの腕に抱き包まれてみたい。  次々に浮かんでくるそんな想像を巡らせていたら、比例するように欲情の感覚も増してしまいそうで、それらを振り払わんと紫月は慌ててうつむき肩を丸めた。  これ以上傍にいたら本当に縋り付いてしまいそうだ。そして、そうなったが最後、想いを抑え切れずに何をするか分からない。甘えて乱れて、彼を求めてしまうかも知れない。氷川から受けた傷を癒す為にも、お前に抱かれて慰められたいんだなどと口走ってしまわないとも限らない。  そんなことになったらそれこそ本当に引かれてしまうだろう。助けてくれた好意に対しても申し訳ないし、こういってはナンだが、しばらく一人にしておいてくれないかななどと考えていたその時だった。  ソワソワと落ち付かない様子を変に思ったのか、鐘崎の方は相反して怪訝そうに眉をひそめると、思わず『えっ?』と思うようなことを口にした。 「……もしかしてまだ抜けてねえのか?」  そして更に驚くべき質問が続く。 「お前が握らされてた瓶、あれを使ったのは氷川って野郎か?」  そう訊いてくる鐘崎の表情は苦くて、とても機嫌の良さそうな感じではない。紫月は一瞬、何のことかと困惑したが、考える内に彼の言っている意味に思い当たった。 『ちゃんと握ってろよ。気持ちよくなるまじないなんだからよ――』  ニヤけた氷川の顔面ドアップが脳裏にチラついて、次第に記憶の中の点と点が繋がってゆく――。

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