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第66話

 そうだ。何を舞い上がっていたのだろう。こんな都合のいい話などあるわけもないというのは分かり切っていたはずなのに、彼の厚意に甘んじて思わず勘違いをするところだった。そう思ったら急に胸がえぐられるようで、紫月は思わず込み上げた苦笑いに唇を噛み締めた。  もういい。この際、とことん下郎に成り下がってしまうのも悪くはない。それ以前に下郎そのものなのだから。  そんな思いが浮かんで、今度は腹が据わる。コロコロと浮き沈む自らの感情のままに、紫月は目の前の胸元に縋り付くように腕を伸ばした。 「鐘崎、ごめん……俺、やっぱまだ全然治まんねえ……みてえ」  だから―― 「だからさ……もし嫌じゃなかったら……もうちょい付き合って……くんねえ?」  荒い吐息を抑えながらわざと淫らな口ぶりで誘うようにそう言った。  そうだ、いつもセフレの男にしているように、何の感情もなく溺れてしまえばいい。こんな機会だから、少し大胆にしても今なら薬のせいでごまかせるんだ。実際、そうすることでこの男に拒まれたとしても、互いの間に大して深刻な傷跡を残さずに済むのも確かだろう。今更ながら『氷川のバカには感謝しねえとな』などと、そんなことまでもが浮かんで、孤独な苦笑いがとまらなくなる。 「な、それだけじゃ足んねえんだ……こっちも……」  思い切って彼の利き手を取り、自らの脚を広げ、腰を浮かせて秘所へと一気に導いた。  放った白濁で湿った蕾に彼の長い指先を押し付け弄らせるように押さえ付ける。どうせ驚いて、さすがにそこまで付き合う義理はないと、焦って硬直するに決まっている。想像しなくてもそんな絵図が脳裏を過ぎった。 「氷川に突っ込まれたばっかで申し訳ねえけどー、野郎と寝んの嫌じゃなかったら抱いてくんねえ?」  自嘲たっぷりにそう言い放ち、これで仕舞いだと腹をくくる。  さあ、早く『そんなことできるわけねえだろ』って、お決まりの台詞を浴びせられたい。もともと叶わない想いを断ち切るにはいい機会だとさえいえる今この時に、どうせならば思いっ切り深く傷付けて振って欲しい。  瞳を閉じ、口元に諦めの笑みをたずさえながら大きく息を吸い込んで、手酷いその瞬間を待っていた紫月の耳元に、意外な気配が飛び込んできたのはその直後だった。  僅かの沈黙の後、カシャリという金属音に怪訝そうに薄目を開ければ、そこには自らの腹上でベルトをゆるめている彼の手元が映し出され――  ジッパーを下ろしながらこちらを見つめてくる大きな瞳は、若干の不機嫌を伴いながらも、そこには動揺のかけらも感じられない。逆にこちらが焦ってしまい、無意識に腰を引けば、ガッシリとその腰元を掴まれて、紫月は目を白黒とさせてしまった。 ――そしてまた、信じ難いような台詞がシーツの海に落とされる。 「約束しろ紫月。二度と他の野郎なんかと寝るんじゃねえ。そんなことしたらぜってー許さねえ」

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