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第68話

 その日の夕刻になってから、鐘崎の家の車で送ってもらうという形で、紫月は自宅へと戻った。  無論、鐘崎も同乗してきたが、家に立ち寄ることのないまま早々に引き上げてしまったのがひどく残念であった。  ちょうど道場の稽古をつけていた自らの父親からも当然御礼の挨拶をするべきだし、何よりここまで運転をしてきてくれた鐘崎の世話人らしき中年の男性も含めて、お茶の一杯もご馳走しないと気が済まない。だが、そんな気遣いは無用だからと、あっけない程の勢いで立ち去ってしまった彼らを見送りながら、何だか心にぽっかりと穴が開いてしまったような気分を拭えなかった。  走り去る車の後部座席には、こちらを振り返っているような鐘崎の様子がシルエットとなって確認できる気がしたが、それもすぐに遠ざかり見えなくなってしまう。ほんの今しがたまであの腕の中に抱かれていたのだと思えば、瞬時に頬が染まる。だが、そそくさと引き上げてしまったことを思えば、それさえも現実なのか夢なのか曖昧に思えてしまうのが怖かった。 「なんもそんなに素っ気なくすることねえのに……」  やはり後悔しているのだろうか――などと思わず勘ぐってしまう自分も嫌で仕方ない。不安な胸中を何とか抑えながら、紫月は眠れない一夜を過ごしたのだった。 ◇    ◇    ◇  ようやく寝付けたのは夜も白々と明ける頃だった。派手な青痣も気になることだし、その日は学校を休むことにした。  父親には一通りの説教を受けたが、半ばいつものことと諦め気味なのか、さほどしつこく追求されずに済んだのだけは幸いといえる。そして放課後になると、剛と京が様子見に揃って顔を出してくれた。  もしかすると鐘崎も一緒に来てくれるかも知れないと、淡い期待を抱きながら待っていた紫月には、そこに彼の姿が見えなかったことが何とも残念であった。そんなことを露知らずの剛と京は、事の成り行きに興味津々の様子だ。 「やっぱ桃稜の奴ら、報復に乗り出して来やがったか! 氷川のことだから近々こんなことになるんじゃねえかって心配してた矢先だもんなぁ……」 「けど遼二がお前を見掛けたお陰で大事に至らなかったって。それだけはマジでよかったよ」  本心から心配そうに言う剛らにチラリと視線をやれば、その『遼二』はどうしたんだとばかりに受け取れたのか、あえて言葉に出しては訊かなかったものの、彼の方から話してくれた。 「あいつも一緒にどうかって誘ったんだけど。何だか今日は用事があるとかでよ」  そんな説明に京もすかさず相槌を入れる。 「そういや随分急いでたっぽいよな? あ、お前によろしくって言ってたぜ」  それを聞いて半ばホッとした心持ちにさせられども、やはり残念な気持ちは否めない。『よろしく』というくらいだから、とりあえずは昨日のことを気に病んではいないのだろうと思うことにした。

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