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第88話
「そうだ、源さん。飲茶をお願いできるか? 今日はちょっと昼休みに野暮用ができちまって、飯が軽かったんだ」
さらりとそんなことを言った鐘崎の言葉に、紫月はハッとなった。この男性の名は『源さん』というのか。確か向島育ちの祭り好きな人だということは以前に聞き及んでいたが、名前を聞くのは初めてだった。
ぼんやりとそんな思いを巡らせながら、またひとたびハタと我に返る。そう言えば、確かに菓子パンひとつだけと軽かった昼食を思い出し、今更ながら腹が鳴るような気がしてきた。鐘崎のさりげない気遣いを嬉しく思うと共に、そんなふうに大事に扱われることにドキドキと頬の染まる思いがしていた。
◇ ◇ ◇
その後、飲茶を済ませてから鐘崎の自室に通されたが、やはり先程のロビー同様、オリエンタルな雰囲気がたっぷりの装飾に目を見張らされてしまった。
「すげえ……何か……映画とかゲームとかに出てきそうな部屋だよな」
「まあな。俺もどっちかっていったらここの地下室よりは上の部屋の方が住みやすいと思うわ」
鐘崎はそう言って笑ったが、それにしてもベッドや家具、絨毯や調度品に至るまで、すべてが異次元だ。また、この自室にも壁一面の大きな窓があって、それはロビーからの続きのような造りになっているのだろう、立体映像だという香港の摩天楼を望むことができる。
「マジですげえ。お前の親ってどんだけ金持ちなんだよ」
嫌味でも何でもなく、素直に思ったことがそのまま口に出てしまったという調子で、紫月は未だ瞳をグリグリとさせている。そんな様子に鐘崎はまたひとたびやわらかに微笑むと、
「まぁ、親っていっても実の親じゃねえけどな」
思わず、『え?』というようなことを口にした。
「実の親じゃないって……けどこの前、確かお袋さんはここ――川崎が実家だとか言ってなかったっけ? じゃあ香港にいる親父さんたちってのは……」
「ああ、育ての親だ。実の両親は俺がまだ小せえガキの頃に離縁したからな。お袋が親父に愛想尽かして、男を作って出て行っちまったんだと。今はアメリカにいるらしいが、俺はそれ以来会ってねえし、川崎にあった実家ってのも既に人手に渡ってる。お袋の方のじいさんとばあさんは早くに他界しちまったから」
「……」
「まあ、親父も親父で仕事柄、年中家を空けてることが多かったからな。そういう不安定な生活に付いていけなかったんじゃねえかって、お袋が出てった頃に親父がそんなふうに言ってたのを覚えてる」
「……そう……なんだ」
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