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第89話
「で、親父が懇意にしてた今の両親が俺を引き取って育ててくれたってわけ。小せえガキを抱えたまんまで家を空けてるような仕事じゃ大変だろうっつってさ」
初めて耳にする鐘崎のそんな事情に少し驚きながらも、だが自らも既に母親が他界している紫月は、
「そっか。ま、そういう俺んちもお袋はいねえんだ。俺が生まれてすぐの頃、病で亡くなっちまったんだって。だから俺はお袋の顔は覚えてねんだ。写真では見たことあるけどさ、ずっと親父と二人暮らしだったから、『母ちゃん』がいるって感覚が分かんねえし」
まあ、男所帯だから細かいことは言われないし、気楽なものなんだと言いながら笑ってみせた。と同時に、鐘崎の方の実父のことが気に掛かって、
「あ……じゃあさ、お前の実の親父さんはどうしてんの?」
思わずそう訊いてしまった。
「ああ、親父の方とはたまに連絡取ってる。育ての両親とも未だに懇意にしてるから、よく顔も合わせてたしな」
「てことは、実の親父さんも香港にいるんだ?」
「ああ。仕事が向こうなんでな」
「そうなんだ」
目の前に広がる香港の摩天楼、そこに鐘崎の実の父親と育ての親が住んでいる。立体映像に映し出されたこの景色を、今頃彼らも目にしているのだろうか。それと同じ景色をぼうっと見つめながら、ふと或る思いがよぎって、隣に立つ鐘崎へと視線を移した。
「なぁ、鐘崎さ……」
「ん?」
「……や、あの……もしかだけど……」
そう言い掛けて、次の言葉を詰まらせてしまった。
――そうだ。この鐘崎はついこの春に転入してきたばかりだから、今の今まで気にも留めなかったが、よくよく考えてみれば、いずれは実家のある香港へ帰るのではないだろうか。いや、元々向こうで生まれ育ったわけだし、両親も家もすべてがそちらにあるのだから、当然帰るのが道理だろう。
ふと思い浮かんだそんな想像に、心が締め付けられるようだった。視線も泳いで、目の前の鐘崎を直視できない。
そんな様子をヘンに思ったのか、
「もしか――何だ?」
鐘崎は穏やかな感じでそう訊き返した。
「……え、ああ……その、もしかして……いつかは香港に帰っちまうのかなって……ちょっとそう思ったもんだから」
「ああ、まあな。一応、育ての方の親父との約束では高校を卒業するまでってことで留学させてもらってる」
「卒業!? ……ってことは……一年したら帰るってこと……?」
「ああ、その予定だけど」
頭の中が真っ白になっていく気がしていた。
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