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第93話
「さあ、そろそろシャワーでも浴びて支度するか。お前の親父さんも心配してるといけねえしな?」
今一度、長い指先でやさしく髪を梳きながら鐘崎は言った。
「あ……そうだな、忘れてた。今、何時なんだ?」
「もう九時になる。ここは地下だから時間が分からねえのが玉に傷なんだ」
チュッっと額に軽いキスを落としながらそう言う鐘崎に、再び頬が染まる。
「そっか……もうそんな時間……。親父の方も道場の稽古が終わって、ひとっ風呂浴びてる頃だな」
名残惜しい気持ちを飲み込んで、紫月はゆっくりとベッドの上で上半身を起こしながら、
「――ヤベ! そういえば晩飯の買い物すんの忘れてた!」
突如、すっとんきょうな声を上げた。
隔日で夕刻から小中学生の部の稽古がある日には、父に代わって買い物をして帰るのが紫月の役割でもあるのだ。今日はまさにその日だったのをすっかり忘れていた。
この時分だと開いているスーパーも限られてくる時間帯だ。少々焦る紫月の横で、またひとたび鐘崎が余裕の様子で微笑んだ。
「大丈夫。親父さんへの土産にと思って点心を用意してあるんだ」
「え!? マジ?」
「ああ、うちの料理人自慢の点心だ。親父さんにも気に入ってもらえるといいんだが」
「や、そりゃもちろん。さっきのもすげえ旨かったし! けど、何だか……すまねえな。いろいろ気を遣ってもらっちゃって……さ」
「構わねえさ。今日はお前を一人占めさせてもらった詫びも込めて……な?」
細められた瞳がそこはかとなくやさしくて、何度でも頬が染まってしまいそうだ。ガラにもなくモジモジとしてしまい、紫月はしどろもどろに視線を泳がせていた。
「ぼちぼち行くか。源さんの車で送っていくぜ」
「あ、うん……さんきゅな」
◇ ◇ ◇
その後、鐘崎も同乗して”源さん”の車で自宅前まで送ってもらった。
紫月にしてみれば、当然茶の一杯くらいは――と思っていたのだが、二人は家には上がらずに帰って行ってしまった。もう遅い時刻だし、遠慮もあったのだろう。
驚いたのは紫月の父親である。
目を見張るような美しい盛り付けの、まるで一流飯店やホテルで出てくるような豪華な点心の差し入れに、紫月によく似た面差しの大きな瞳をグリグリとさせながら絶句状態だ。
「これを……あの鐘崎君が?」
「ああ、うん。俺はヤツの家で先にご馳走になって来たんだけど、すげえ旨かったぜ」
「お前……今まで彼の家に行ってたのか?」
「そうだけど。今もここまで車で送ってもらってさ。家にも上がってもらおうと思ったんだけど、今日は帰るってから」
「……そうか。で、晩飯までご馳走になって来たわけか?」
「ん、そう。けどまあ、食ったの夕方だったし、こんなに量もあるし、俺ももっかい食わしてもらおっと!」
正月のおせち料理さながらの塗りの箱を広げながら、上機嫌で紫月は箸を付けた。
「うっめ! まだあったけえし! 親父も食えよ」
「あ……ああ、じゃあ遠慮なくご馳走になるとするか……」
紫月の父親は時折、手元の晩酌の酒を注ぎながら、点心のひとつひとつを大事そうに口に運んだ。
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