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第105話

「まあ、てめえには俺でさえすっかり惑わされたぐれえだしな? あん時の憔悴しきったてめえを見て、ヤツがその気になっちまった――ってことも考えられなくはねえってか?」  確かに一度はそういった可能性を想像したものの、普通に考えれば有り得ないだろうと思っていたのだが、この紫月の反応を見る限り、案外それで”当たり”なのではないかと思えてくる。氷川は更に面白そうに口元をひん曲げると、まるで独り言に納得するかのようにベラベラとこう言い放った。 「確かにな。てめえ相手なら、そこいらの女なんかとヤるよりよっぽどソソられるし。慰め半分で抱くぐれえ、有り得ねえ話じゃねえな? しかもヤツはマフィアの息子(ガキ)だって話だし、案外男との経験もあったのかも」  紫月にとっては、もはや驚愕だの衝撃どころではない。誰の、何についての話題なのかも、すぐには理解できないくらいだった。 「…………」 「――どうしたよ? まさか言葉も出ねえ程のショックなわけ?」 「……だ……や、な……の話……してんだ、てめ……」  しどろもどろで、まさに言葉にすらなっていない。 「何のって――てめえの番犬、鐘崎遼二って野郎のことだよ。ヤツの親父は香港マフィアの頭領(ドン)だそうじゃねえか。ま、番犬にするにはある意味打ってつけだよなぁ」 ――――!? 「あれ以来、ヤツが毎日てめえを送り迎えしてるせいで、俺も今日まで手出しできなかったわけだし? さすが血統書付きってか?」  耳元でベラベラと続けられる言葉も、もはや意識にすら入らない。すべてがスローモーションのように感じられ、今この時が夢なのか現実なのか、はたまた自身が立っているのか座っているのかさえも分からなくなりそうだ。ちょうどその時だった。 「紫月っ――!」 「無事かッ!?」  入口の扉から剛と京が飛び込んで来たのに、無意識に視線だけがそれを捉えた。普段の紫月ならば、それを機に氷川の脇腹あたりに一撃をくれているだろう。だが、すぐには何も反応できない。  氷川はチィと舌打ちと共に、 「クソッ、邪魔が入りやがった」  そう吐き捨てると、懐に忍ばせて来たスタンガンを紫月の背中へと押し当てた。そしてすぐさま崩れ落ちた肢体を肩に担ぎ上げると、裏口に当たるもう一方の出口へと急ぎ、扉を蹴り飛ばした。  けたたましい轟音と共に土埃が舞う――

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