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第109話
「――美友、それについてはもうだいぶ前に”無し”になったはずだぞ」
穏やかではあるが、はっきりとした口調でそう放った鐘崎に、美友の整った眉根に剣が浮かぶ。
「無しって……あたしは了承してないわ。あれはパパたちが勝手に……!」
「元々――許嫁なんてのは俺らがガキの頃に親父たちの間で口約束していただけの話だった。俺とお前が中学に上がる時にハッキリとそういう話は無しにしようってことに決めたはずだ。俺らももう子供じゃなくなる。親同士の夢話や眺望なんかじゃなく、子供たちの将来は子供たち自身が決めるのがいいって、そういう話になったはずだ」
確かにそうだった。そもそも許嫁の話自体が、まだ鐘崎と美友が幼い頃に親同士の間の雑談で戯れに話していた程度の、いわば世間話の中から出たような仮想だったからだ。鐘崎らの中学進学を機に、将来については親の都合ではなく個々に任せるべきだという話向きに決まったのだった。それは美友も渋々承知してはいたことだ。
だが、成長するに従って鐘崎への恋慕の気持ちが強くなっていった美友にとっては、幼い頃の”許嫁”という強力な決め事をむざむざ無かったことにはしたくない――という思いもまた大きくなっていったのだった。
鐘崎としては、今回連休を利用してわざわざ香港から出向いて来た彼女が、自身に対してそういった”特別な想い”を抱いているだろうことに気付いていないわけでもなかった。無論、源次郎もしかりだ。
傍から見ていても明らかな恋情の気持ちをないがしろにするのは気が病まないでもないが、だからといって彼女と同じだけの気持ちを返せないことが分かっていながら”気を持たせる”方が良くないだろう。少々酷だが、ハッキリと断るのも互いの為だ――そう思って、鐘崎は正直な気持ちを伝えるべきと思った。
だが、この場でそれを告げるのも憚られる。もしも美友が自身に対して恋慕の気持ちを抱いているのが事実であるのならば、それを断るような形になるわけだからだ。付き人たちがいるところで彼女に恥をかかせるようなことになってはいけないという配慮から、鐘崎はしばらく二人だけの時間を貰えないだろうかとその場の皆に頭を下げた。
◇ ◇ ◇
互いの付添人たちが離席して行くと、美友は殊更高揚したように鐘崎の脇へと抱き付くような仕草で、満面の笑みを浮かべてみせた。この席は源次郎が気を利かせて予約したこともあって、間仕切り用に置かれている背の高いグリーンがパーテーションになっている。周囲の客からは見えないことが幸いだった。
「ね、遼二。もし良かったらこんな所じゃなくてわたしの部屋で話さない? 最上階のスイートを取ってあるの」
二人だけになったことで最高に嬉しそうにする美友の表情は、その直後の鐘崎の言葉で瞬時に翳り、豹変した。
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