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第120話

 ひと言も発せないままでコクコクと(うなず)くだけが精一杯、それを見てもう用は無いとばかりに(きびす)を返した鐘崎を遠巻きにしながら、執事の男が床を這いずって氷川へと歩み寄っていった。 「坊ちゃま……坊ちゃま……!」  ひたすら名を呼ぶだけで、後は言葉にならない。「大丈夫ですか」のひと言さえ発せられない程に恐怖しているふうだった。  その彼に続くようにして、鐘崎の行く手から逃げるように使用人たちが次々と氷川の元へと集まっていった。彼らは鐘崎と源次郎が有無を言わさずに邸内に踏み入れるのを、阻止しようと追い掛けてきた者たちだ。  鐘崎は既に部屋の扉口で紫月を支えて待っていた源次郎のところで足を止め、再び後ろを振り返った。  今度は何をされるのだろうと、氷川の背に隠れるようにしながら誰もが身を震わせ縮こまる。一応は主である氷川を――しかも怪我を負っている主人を――盾にしてでも身を守りたいというのは本能だろうか。まるで蛇に睨まれた蛙の集団という図だった。 「警察を呼びたきゃ呼べばいい。尤も、そんなことをすれば、てめえの首を締めるだけだろうがな――。今回は沙汰無しってわけにはいかねえぞ。停学くらいは覚悟しておくことだな」  鐘崎は氷川に向かってそれだけ言い残すと、源次郎の手から紫月を受け取るように抱き寄せた。 「遅くなってすまなかった。大丈夫か?」  腕の中の紫月を見つめ、額に唇を寄せて、無事を確かめるかのように口付ける。 「怪我はしてねえか?」  そう問う声はそこはかとなくやさしい。本心から身を案じているのがありありと分かる気がしたが、紫月は何一つ反応を返すことができないままだ。 「もう何も心配はいらねえからな」  瞳を細めながら鐘崎はそう言い、またひとたび頬と額へと口付けを落とす。上半身は剥かれていたものの、しっかりと制服のズボンは穿いたままの様子にとりあえず安堵する。だが、紫月の表情は、まるで時が止まってしまった人形のように呆然としたままだ。少々様子がおかしいと感じたのか、鐘崎は心配そうに眉をしかめた。 「どうした? どこか辛えのか? 痛むところでもあるのか? 紫月?」 「……い、だいじょぶ……」 「ん?」 「……一人で……歩ける……から」  放してくれというように腕の中でもがく動きを押さえ込んで、 「無理をするな。とにかく俺の部屋へ帰ろう」  氷川が紫月に様々と吹き込んだ内容を知る由もない鐘崎は、愛しむようにそう言った。

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