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第134話

「彼には幼子がいてな。子供を放って異国の地で暮らすことはできないと言ったそうだ」 「子供!? ……てことは……その人は結婚してたってことか?」 「ああ。だが、夫人を病で亡くしていてな。だから彼は男手一つでその幼子を育てていた。親父は彼に自分の稼業のことも話していて――無論、俺っていうガキがいることも、お袋とは離縁してしまったってことも含めてだ。互いに男やもめだし同じ年くらいの子供がいるから、子供同士で遊ばせることもできると、親父はそう思ったらしい。俺を預かってくれている――つまりは今の俺の養父だが――その養父から俺を引き取って、親父とその人と俺たち子供の四人で家族にならないかと提案したそうだ」 「……そんなにまで……」  それほど具体的に考えるくらい、鐘崎の父親はその恩人を愛したということなのだろうか――。では、それを断ったという恩人の方の内心はどうだったのだろうか。紫月は何もかもに驚きを隠せないといった面持ちでいた。  もしかしたらその恩人という男も、本心では鐘崎の父親に付いて香港に行きたかったのかも知れない。だが幼子のことを考えれば諦めざるを得なかったということなのか。何とも胸の痛くなるような話である。考えあぐねる紫月の傍で、鐘崎の話は続いた。 「だが、親父のそんな提案は叶わなくて良かったのかも知れない。香港に戻れば、親父には常に危険を伴う裏社会での稼業が待っている。幼子を抱えて言葉も通じない異国の地で彼に不安な生活を強いることになる」 「そんな……」 「実際――、親父自身も現実のことを考えれば、そんな生活は夢物語だと思っていたのも本当のところだったようでな。二人は別々の人生を歩くことを選んだんだ」  聞けば聞くほど切ない話である。紫月は、もしもその恩人の男が自分だったら――と置き換えて考えると、居たたまれない気持ちに陥ってしまった。  自分には子供もいないし、もしも今後、鐘崎から一緒に香港で暮らさないかと言われれば付いて行きたいと思うだろう。だが、その裏で全く不安が無いとも言い切れないのも確かだった。  言葉も通じない、周囲には知っている人もいない。剛や京のような仲間もいない。頼れるのは鐘崎だけで、だからといって鐘崎以外の人物と全く係わらないで過ごすなど不可能だろう。もしかしたら鐘崎が連れ帰った自分のことを(うと)む者がいないとも限らない。例えば鐘崎の許嫁だったという幼馴染みの女性や、その家族が自分をどう思うかなどは考えずとも分かりそうなものだ。まあ、鐘崎の実父とはそれなりに付き合っていけそうな気もするが、養父だという香港マフィアの頭領一族とも一生涯会わずに暮らすなどできないだろう。  確かに現実を見れば不安なことだらけである。ましてや幼子などを抱えていたのであれば、より一層慎重にならざるを得ない。  紫月には、何となくその恩人の男が別れを選んだ気持ちも理解できるような気がしていた。

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