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第135話

「難しいよな……」  ポツリとうつむき加減にそんな言葉を漏らした紫月を、鐘崎は切なげに見つめていた。 「――そう思うか?」 「ん……。何つーか……愛と現実の狭間っつうか……その恩人って人の気持ち、分からねえでもねえかなって。でも……だから別れられるかっつったら……それも辛えよな」  まるで自分のことのように切なげに瞳を歪める紫月を横目に、鐘崎も少し辛そうにして瞳を細めた。 「なぁ紫月――お前だったらどうだ? 俺が一緒に香港に付いて来てくれって言ったら――」 「……俺……? ん、どうだろな……。俺は……」  目の前の鐘崎を見つめれば、愛しさがあふれ出すようだ。 「俺、俺は……無理……多分」 「――紫月?」 「俺は……確かに向こうに行ったら不安なことの方が多いと思うけど……。旅行で行くってのとはワケが違うだろうし……。けど……、けど無理――。お前と離れるなんて……できねえ、俺……俺は……!」 「紫月――!」  鐘崎は紫月を抱き締めた。まるで思いの丈の全てで――といったふうに、全身全霊を込める勢いで抱き締めた。強く強く、抱き締めた。 「――紫月、好きだ。俺も同じだ……俺も。お前が香港に帰るなって言えば帰らねえ。ずっとずっと、お前の傍にいる――!」 「鐘……崎……」 「言ったろう? 俺はお前を離さねえ。お前の傍を離れる気もねえって。あれは嘘じゃねえ。お前と一緒に居られるんなら、香港だろうが川崎だろうがどうでもいいんだ。俺はお前を……お前だけが大事なんだ。好き……なんて言葉じゃ全然足りねえ……! 愛……している……!」  鐘崎は紫月を抱き締めたまま、まるで涙するかのようなくぐもった声でそう繰り返した。何度も何度も「愛している」と繰り返し――紫月もそれに応えるように鐘崎の広い背中に両腕を回して抱き締め返す。二人は互いを離すものかといったふうに抱き合っていた。  しばしの抱擁の後、静かに鐘崎が言った。 「親父たちは結局離れて暮らすことを選んだが、二人はその後も連絡は取り合っていたんだ。親父を襲撃した香港からの追手も、まさか一般人が親父を(かくま)っているとは思いもしなかったんだろう。日本の裏社会といわれる場所はしらみ潰しに当たったようだが、民間人までは手を回さずに香港に戻ったようだった。そのお陰で親父も奴らに見つかることなく養生できたし、親父を助けてくれた恩人の存在も表に出ずに済んだわけだ」  傷の完治と共に鐘崎の父親は香港に戻ったが、万が一にでもその恩人に難儀が降り掛かることを懸念して、二人は表だって連絡を取り合うことをしないという約束を交わしたのだそうだ。メールや電話といった、ハッキングに繋がりやすい交流は以ての外である。二人が選んだのは、鐘崎の父親の知人を通して手紙でやり取りをするという方法だった。

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