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第169話

「じゃ、そろそろ行くか――。佐竹さんをあんまり待たせちゃ申し訳ねえしな」  今の今まであった孤高の視線がふっと緩んだと同時に、微かな笑みを口元に浮かべながらそう言った氷川に、冰は胸が潰れそうな程の切なさを感じていた。 「ほら、使えよ」  若干苦笑気味ながらも、穏やかな視線と共に差し出されたのは一枚の白いハンカチだった。  涙を拭えという意味だろう。真っ白でピシリと糊の効いた四角いそれを、無意識に伸ばした手が受け取った。 「それ、やるから遠慮なく使え。ンなツラしてっと、佐竹さんが心配する」  まるで掌で頭を撫でん仕草を穏やかな視線に代えてそう放たれた言葉が、冰の胸の痛みをますます強くしていくようだった。  昼に佐竹から聞いたやさしくて思いやりのある、理想的な男の行動の話は感動的だった。それとは真逆のような、残忍で身勝手な男の行動――それこそが本来の俺なのだと、当の本人から打ち明けられた話は衝撃だった。  本当はどちらが真実の彼なのだろう。  知りたいような、知るのが怖いような感覚だった。  もっと深く彼を知れば、自らも引き裂かれて、彼に抱いていたあたたかで優しい理想のイメージごと粉々に砕け散るかも知れない。  だが、このまま袖触れ合っただけで離れてしまうとすれば、思い切り後ろ髪を引かれてならない。  自分でもどうしたいのか、どうすべきなのか全く分からない程に、冰の胸は乱れに乱れていた。 ◇    ◇    ◇  その後、佐竹の運転する車で粟津財閥の所有するホテルに戻ると、冰を部屋まで送り届けて氷川は自宅へと帰って行った。  残された冰は、もう宵闇が降り始めた部屋で一人きり、何を考えるともなし、何を感じるともなしといった具合でいた。ただただ呆然と、今日一日で起こったことが絵空事の夢のような心地でいた。  親友の帝斗に報告の電話を掛ける気にもなれず、大パノラマから見下ろす見事な夜景を楽しむ気にもなれず、頭の中が空になったように何も考えられない。まるで放心したかのように、ぽっかりと空いた大きな穴の中で無重力に漂う自分を、別の自分が呆然と見つめているだけのような状態であった。  ふと、視線の先に、皺くちゃになった白いハンカチを映し出して、冰はハッとしたように瞳を見開いた。  先程、氷川から渡されたハンカチだ。無意識にずっと握り締めてきたのだろうか、掌の中で形を失くしたようにぐちゃぐちゃなそれを目にした瞬間に、堰を切ったように涙があふれ出した。  そのまま再びそれを使って涙を拭いざま、開いたハンカチの端っこに刺繍された文字を見つけて、みるみると瞳を大きく見開いた。  ― Ice 白 night ー  そこには家紋か何かだろうか、または社のロゴか、丸く象られたマークと一緒に、その文字が刺繍されていた。  Ice、つまりは氷という意味だろう。『白』だけが漢字で、続くnightは訳せば『夜』だ。  彼の名前を表すオリジナルの羅列なのだろうか。氷川白夜――その文字を思い浮かべた瞬間に、自覚できていなかった愛しさがあふれ出す。こぼれる涙が冰の頬を滝のように濡らして落ちた。

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