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第172話
氷川が一之宮道場から自宅へと戻ると、執事の真田が慌てたようにして出迎えに駆け付けてきた。
「坊ちゃま! ああ、良かった! 何もおっしゃらずにお出掛けになられるなんて……心配致しましたぞ!」
息急き切らして駆け寄ってくる様子に、散々邸の中を捜し回ったのだろうことが窺えて、氷川は申し訳なさそうに瞳を細めた。
「済まない、真田――」
「いいえ、ご無事にお戻りになられたのですから何よりです! それよりも、坊ちゃまを訪ねていらしたご学友が応接室でお待ちになっておられるのですが……」
「学友? ひょっとしてまたあの粟津か?」
氷川は驚いたように瞳を見開くと、真田に続いて応接室へと急いだ。――と、そこに待っていたのは粟津帝斗ではなく、何と冰であった。
「――白夜!」
扉が開くなり大きな声でそう叫ばれて、真田共々驚きを隠せない。そんな氷川の様子を他所 に、冰は無我夢中といった調子で駆け寄ってきた。
「白夜! 良かった……!」
「……冰じゃねえか……どうした? よく俺の家が分かったな」
氷川もまさか冰が訪ねて来るとは思ってもいなかったわけで、珍しくも怖じ気づくくらいに驚いた様子であった。冰の方も氷川を目の前にしてか、急に我を取り戻したように恥ずかしそうにうつむいてしまう。
「あ、えっと……ごめんな。いきなり、その……自宅を訪ねたりして……」
「いや、構わんが……」
「でも……良かったよ。アンタが……どっか行っちまったって執事さんに聞いて……心配したんだ」
「……あ、ああ。そりゃ済まなかったな」
「ううん、俺の方こそ、ホント突然押し掛けるようなマネして……申し訳ない」
二人共にろくに視線も合わさずに、押し問答のような会話を続ける様子に執事の真田が気を利かせてか、「ただいまお茶のお代わりをお持ちしましょうね」と言って下がっていった。
時刻は午後の二時になろうかというところだ。氷川家の応接室の窓は洒落た格子造りになっていて、二階までの吹き抜けと思える程に天井高がある。壁紙やカーテン等の内装が、まるで大正浪漫を思わせるようなその部屋からは、庭の小高い木々の合間を縫って午後の日差しがキラキラと降り注いでいるのが見える。
「で、何かあったのか? 随分慌ててたみてえけど」
「あ……ううん、別に特に用があったというわけじゃないんだ……けど」
昨日の今日だからか、お互いに何となく気まずいわけだろう、思ったように会話が進まない。
氷川にしてみれば、冰が自身を訪ねて来るなど驚きに他ならず、だが本心では嬉しく思えるのも事実である。そんな気持ちを隠すべきなのか、はたまた素直に出していいものなのか――迷う氷川の頬には、薄らと紅の色が浮かび上がっている。
一方、冰の方にしてみれば、酷く勇気を持った行動である。昨日、この氷川から聞かされた衝撃の事実を消化できていないながらも、気持ちよりも先に身体が動いてしまったというような心持ちなのだ。
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