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第173話
間の悪い沈黙を破るかのように氷川が先に口を開いた。
「それよりお前……一人でここに来たのか?」
「え……?」
「いや、だって……玄関には車が停まってなかったし、粟津ん家の佐竹さんはどうした?」
「あ、うん……。俺一人で来た。佐竹さんには見つからないようにこっそり抜け出して――」そこまで言い掛けた時、語尾をもぎ取るように氷川が形相を変えた。
「バカ野郎! 一人で出歩くなんて……ッ! 危ねえことすんじゃねえよ!」
突如怒鳴り上げられて、冰の方は驚いたように肩を竦めた。ビクリと後退るように身体を震わせた冰を目の前にして、氷川もハッと我に返る。
「あ……、済まねえ」
「ううん、いいんだ……」
氷川は冰へと歩み寄ると、大きな掌でその頭を撫でんとして、一瞬戸惑い――そっとその手を引っ込めた。
宙に浮いた掌が手持ち無沙汰に空を切る――
「怒鳴ったりして悪かった。けど……当分の間はもう一人で出歩いたりするな」
「白夜……?」
「お前を愛人にしようとしてるっていうヤツ――川西とかいうんだろ?」
氷川から飛び出したその名を聞いて、冰は驚きに目を見開いた。
「そうだけど……。まさか……調べてくれたのか?」
「ああ――昨夜、ちょっとだけな。不動産を中心に結構手を広げてる企業みてえだな」
「あ、ああ……そうみたいだな。俺はよく知らないけど、親父のブレーンの人たちがそう言ってたのを聞いたよ」
「そいつ――今月末までは海外出張だとか言ってたよな?」
「あ、ああ、そう聞いてる……」
「だったらそいつ自身がお前に会いに来るとか、そういう心配は無えにしろ……とにかく用心するに越したことはねえだろ? 急に予定が変わって帰国が早まるなんてこともあるかも知れねんだ。出掛ける時は粟津ん家の車に世話になるか、お前ん家の信用できる運転手に付き添ってもらえ。俺もなるべく早く対策を考えるようにするからよ」
「……白夜」
氷川の言葉から、昨日別れた後にすぐ川西のことを調べ上げたのだろうことが窺えた。まさか彼がそんなことまでしてくれているとは夢にも思っていなかった冰は、ただただ驚いた。ということは、氷川は本当に約束を守ろうとしてくれているということなのだろうか――
『恋人云々は無しにしても、お前を愛人にさせるようなことはしない』
昨日、葉山の海岸で氷川が言ってくれた言葉だ。あの時は衝撃の方が大きくて、おぼろげにしか覚えていなかった約束だ。それなのに、この氷川ときたら、すぐにも雪吹財閥の近辺を調べて、川西という男の存在までもを突き止めてくれている――
冰は心底驚いた。
と同時に、氷川に対する想いが様々とこみ上げて、胸の奥底がギュッと掴まれたように苦しくなる。ともすれば涙が滲み出してしまいそうだった。
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