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第214話
「氷川……ッ! おい、待てって氷川!」
皆で氷川を追い掛けるように階段を駆け下りて昇降口へ向かうも、既に氷川の姿はなかった。
「おい……どうするよ……?」
「……どうするったって……」
「俺らも行った方がよくねえ……か?」
「けど……」
迷うだけで埒があかない。気持ちの上では追い掛けるべきと分かってはいても、最初の一歩が踏み出せない。皆一様に重苦しい雰囲気に押し潰されそうになっていた――その時だった。
「先輩方――」
後方から突如声を掛けられて、全員が一斉に振り返った。と、柱二本分ほど離れた位置から、眼力を伴った一人の男がこちらへと駆け寄ってくるのが見えた。
「すみません。今、氷川さんが血相変えて走って行ったのを見たんですが――」
声を掛けてきた男を見るなり、皆が驚いたようにして彼を凝視した。
「お……前、二年の春日野……か?」
彼の顔には見覚えがあった。一学年下の春日野という男だ。先日、氷川が停学明けで登校してきた際にも、早瀬らと氷川との睨み合いに割って入った程の度量を持ち合わせた男である。
桃陵学園で氷川の後を継ぐのは、この春日野だと噂されていたから、誰もが関心を持っていたわけだ。
彼もまた氷川と同様で、皆に崇められてはいるが、早瀬らのような汚いことは一切しないという。筋の通った男としても名が知れていたのも確かであった。
「何かあったんですか?」
「あ、ああ……実は――」
春日野に声を掛けられたことで、誰もが言いようのなく逸った思いが抑えられない。一同は後輩である彼に縋るようにして、事の次第を説明したのだった。
◇ ◇ ◇
その頃、早瀬らによって連れ去られた後藤は、五、六人のガラの悪い連中に囲まれながら、旧部室に引っ張り込まれて震えていた。
声一つ出せずに生きた心地がしないといった表情で、その顔色は蒼白いを通り越して真っ白といった調子だ。まるで生き血を抜かれた人形のような形相で縮こまっていた。
そんな後藤を面白おかしそうに突っつきながら、早瀬らは意気揚々だった。
「おい、お前! 後藤とかいったっけ? いいか、氷川が来たら大声で”助けてください”って叫ぶんだぞ!」
「そうそ! そうすりゃ、てめえには手ぇ出さねえでやるよ!」
「ま、こーんな情けねえ野郎を痛めつけたところで、面白くもクソでもねえしな!」
「つか、こんなのボコったっつったら、俺らの格が下がるってもんでしょ?」
ギャハハハと品の悪い笑い声が寂れた部室に充満する。
どこかしこが埃だらけで、以前使われていたロッカーは錆びがきていて、誰かの忘れ物のような鞄やら、汚れた運動着やらが部屋の隅っこに放置されている。廃墟化した光景が、より一層後藤の気持ちを煽ってもいた。
「あの……、氷川君が……来るって……ここに……ですか?」
別段しゃべるつもりでもなかったのだろうが、恐怖心が後藤にそう言わせる。先程から目立って酷い暴力などは受けていないが、時折、弄ぶように頭を小突かれたり肩先を押されたりしていて、恐怖のどん底なのだ。
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