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第266話

 そうして化粧室は使わせてもらったものの、紫月も氷川も出された食事に手を付ける気にはなれずに躊躇(ちゅうちょ)していた。先程のトラックに戻れば菓子パンと飲料水なら確保できるし、ここで得体の知れない食事を摂るよりは安全だ。 「毒なんか入っていないわ。もうすぐ着陸なんだから、サッサと食べてちょうだい! それとも――いらないっていうなら今すぐトラックに戻って!」  美友(メイヨウ)にも二人の考えていることが分かってしまったのか、そう言い捨てる彼女は不機嫌顔だ。側では腕に派手な刺青姿の男が見張っている。結局、食事は遠慮することにして、二人は例のトラックの荷台へと戻った。 [おら、早く乗れ! おとなしくしてろよ!]  刺青の男に急っつかれながら荷台へと押し込められる。またもや真っ暗闇の中に逆戻りだ。 「すまねえな、氷川――」  紫月は申し訳なさそうにして、頭を下げた。 「構わねえって! お前と鐘崎には散々迷惑掛けたんだし、それに――お前らは冰と俺を助けてくれた。俺らの命の恩人だ。恩返し……には全然足りねえけど、少しでも役に立ちてえって俺の気持ちだ」  氷川は、気にするなと言って笑った。  扉の外では着陸後の予定を打ち合わせているのか、美友と男たちがボソボソと何かを話している様子が窺える。 「もうすぐ香港に到着か……。この後、どうなっちまうんだろな……」  紫月が不安そうに外を気に掛ける傍らで、氷川は美友らの様子に聞き耳を立てていた。  しばらくすると、機体が不安定に揺れ出し、いよいよ着陸態勢に入ったようだ。紫月は膝を抱えて座り込んだまま、気重な表情で言葉少なだ。一方、氷川は懸命にスマートフォンに文字を打ち込んでいた。 「そういやお前のスマホ、取り上げられなくて良かったよな」 「ああ、それだけは助かった。正直、いつスマホを差し出せって言われるかと、内心ビクビクだったけどよ」  氷川は文字を打ち終えると、生真面目な表情で紫月を見つめた。 「一之宮――落ち着いて聞けよ?」 「ん? ああ、何――?」 「あの女の考えてることが分かった。奴ら、香港に着いたらお前を()る組織に売っ払うつもりらしい――」 「――え!?」 「詳しいことまでは聞き取れなかったが、闇の売春組織にお前を引き渡すとか言っていた。刺青の奴らは美友って女が金で雇ったチンピラのようだ」  紫月は驚いた。話の内容も無論だが、何故氷川には彼らの言葉が理解できたのかということも不思議でならない。 「……まさか……お前、広東語が分かるのか……?」 「ああ、多少な」 「マジかよ……」 「うちは主に香港と台湾に支社がある。いずれ必要になるからって、ガキん頃から広東語を覚えさせられた。まあ、すげえ流暢ってわけにゃいかねえけどよ」  苦笑する氷川を横目に、紫月はめっぽう驚いたといった表情で、大きな瞳をグリグリと見開いてしまった。

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