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第270話
小部屋といっても倉庫自体が廃墟化しているので、そう頑丈な造りではない。鍵は掛けられたものの、彼らの話し声は筒抜けであった。加えて、こちらには広東語が通じないという安心感があるのだろう。声をひそめるでもなく、堂々と会話してくれているのは幸いといえる。
「ヤツら、何て言ってるんだ?」
「うん、どうやら取引相手ってのはまだ来てねえみてえだ。一先ずここで待機らしい」
氷川が小声でそう言った。
「それにしても、あの美友 って女はどうしたんだ? 姿が見えねえが……」
「ああ、そういやそうだな」
氷川と紫月がそんな会話を交わしていた時だった。突如、物々しい叫び声と共にガチャガチャと鍵が開けられて、二人はビクリとし、身構えた。
いよいよ取り引きが始まるのだろうかと思った矢先――。ところが、何とそこには銃を突き付けられた美友が男らに両脇を抱えられながら部屋の中へと連れて来られたのに驚かされた。
[どういうことよっ!? 話が違うじゃない!]
[うるせえ! 黙ってろ、このアマ!]
[あなたたち、何を考えてるのよ! アタシにこんなことして、ただで済むと思ってるのッ!?]
早口の広東語で詰り合う。
[ギャアギャアとうるせえ女だな! 俺らにとっちゃ、こんなガキ共を売り飛ばすよか、あんたを売る方がよっぽど金になるんだ! そんなことも分かんねえのか?]
[何ですって!? じゃあ……あんたたちはアタシを騙したっていうの?]
[騙したわけじゃねえ。最初からそういう算段だったのさ! あんたに付き合うフリして、言いなりになってやってたってだけだ]
[そんな……!]
[それに……あんた、超有名ホテルのお嬢様だ。そんなアンタが日本にまで行って、俺らにこのガキ共を拉致させた。挙句、闇組織に人身売買させようとしたってことだけでも、俺らにゃ金になるネタなんだぜ? アンタの親父を脅しゃあ、そんだけでも大金せしめられるって寸法よ!]
[世間知らずのお嬢ちゃんが俺らを顎で使えるとでも思ってたってわけか!? 百万年早えってのよ!]
男らは氷川と紫月の目の前に美友を突き飛ばすと、ニヤけ顔で高笑いをし、再び鍵を掛けて出て行ってしまった。
[ちょっと……! 待ちなさいよッ! 待ちなさいってば!]
美友は金切り声で叫びながら、ドンドンと扉を叩き付けた。
[ふざけてんじゃないわよ! あんたたち、アタシを誰だと思ってるの! アタシの後ろにはね、あの”煌 一族”が付いてるのよッ! 煌家の一人息子の遼二はアタシの婚約者なんだから! 後で後悔したって遅いわよ!]
煌一族というのは遼二の育ての親のことだ。マフィアの頭領であり、香港の裏社会に生きる者ならば、その名を聞くだけで震え上がる。美友は、そんな後ろ盾がある自分に無礼なマネをすれば、ヘタをすると命はないのよ――とばかりに脅し文句を叫び続けた。
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