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第276話

 紫月はもとより、さすがの氷川も何とも返答のしようがない。大きく溜め息をつく氷川の傍らで、紫月だけが切なげに眉根を寄せていた。 「……分かるよ、あんたの気持ち」  そう呟いた紫月に、美友はハッとしたように瞳を見開いて彼を見上げた。 「分かるよ、俺にも。あんた、日本語だってすげえ流暢だ。俺にはどんなに頑張っても、あんたのように広東語を覚えられるかっていったらぜってえ無理だ。けど、あんたはそれができる。きっと、すげえ勉強したんだろうなって思うよ。そんだけ遼のことが好きなんだなって……よく分かるよ」  美友は驚きに目を細めた。 「遼だって……あんたのそういう気持ち、きっと分かってくれる。だから今は余計なこと考えねえで、一緒に助かることだけ考えようぜ。無事にこっから脱出して、一緒にあいつの元に帰ろう」  そう言う紫月に、美友はまた一度(ひとたび)大粒の涙をこぼしたのだった。 「……ごめん……ごめんなさい……アタシ……本当に……」  泣き濡れる美友の頭をポンと撫でて、紫月もまた切なげに微笑んだ。 「謝るのは俺ン方だ。俺が遼を好きになったりしなきゃ、あんたにこんな思いさせることもなかった。それなのに……だったら遼を諦められるかっていったら……正直、すげえ辛えと思う……。女のあんたにこんなことまでさせちまったってのによ。……最低なのは俺の方だよ」 「紫月……あなた……」 「ごめんな、美友。俺、ほんとに……何て言っていいか……。本来、俺があいつを諦めるのが一番いいのかも知れねえ。けど、それはそれで正直とはいえねえから……遼にもあんたにも……それに自分にも嘘は付きたくねえ。……我が侭だよな、俺。けど、これが正直な気持ちってか……上手く言えねえけど……とにかくごめん……」 「いいのよ……もう、いいの。アタシが悪かったわ。あなたのこと、よく知りもしないで……ただ焦れて嫉妬して……バカだったわアタシ……」  美友は切なげに笑いながら、 「あなたになら……遼二を……ううん、今なら何で遼二があなたを好きになったのか分かるわ。あなたみたいな人なら……彼ととってもお似合いだわね」  上手くは言葉にならないながらも、これが彼女の本心なのだろう。真っ正直で嘘偽りのない紫月の気持ちを聞けたことで、憑き物が落ちたような感覚だったのかも知れない。  あんたの気持ちは痛い程分かる。だけど、遼二を諦め切れない。そんな俺を許して欲しい。  紫月の葛藤しながらも真正直な気持ちが、美友にも理解できる気がしたのだ。そして、そんな彼の気持ちを聞いて、美友もまたひとつの決心がついたかのような心持ちでいたのだった。  あなたになら遼二を任せられる。  あなたのような人になら――  二人のやり取りを聞いていた氷川にも、そんな彼女の気持ちが見えた気がしていた。

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